- 2024.09.06
- 読書オンライン
いよいよ最終回!『笑うマトリョーシカ』は、どんなホラーよりも恐ろしい。
中江 有里
TBS金曜ドラマで話題沸騰!『笑うマトリョーシカ』(早見和真)を読み解く。
出典 : #文春オンライン
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
大勢の国民を魅了する役作り
テレビ番組で某大臣と一緒になったことがある。
人だかりに居てその人は遠目からも目立っていた。わたしに気づくと、さっと名刺を差し出し、満面の笑みで迎えた。
「いつも、見ていますよ」
よく通る声、強い目力、スマートな立ち振る舞い、常に多くの視線にさらされる職業という意味で、政治家は俳優と似ている。大臣はこちらの目を見ながら手を伸べて自然に握手すると、案外あっさりと去っていった。
体温の残る手がジンジンと痛かった。すごい握力。一から十まで過剰だけど、その佇まいは見事に政治家風だった。
本書を読みながら、あの日の記憶がよみがえる。
俳優は台本に沿って演技をする。ただし台本を丸覚えしても演技はできない。綿密に役作りをして初めて、与えられたセリフ、表情に実感がこもる。
一方、政治家に台本はない。肝要なのは役作り。
大勢の国民を魅了する役作りだ。
あふれ出した「どす黒い感情」
物語は、二人の青年の出会いから始まる。
一人は清家一郎(せいけいちろう)。元ホステスの母と暮らしている。父は政治家の和田島芳孝(わだじまよしたか)。
もう一人は鈴木俊哉(すずきとしや)。家の事情で東京を離れ、愛媛の私立高校に進学し、そこで清家とクラスメイトになった。
清家と鈴木が政治家と秘書として運命をともにする未来は、冒頭に記されている。
ではどうやって愛媛の高校生が政治の世界へのし上がっていったのか? 本書の語り手は主に鈴木だが、のちの清家の著書『悲願』も度々引用しながら進んでいく。
まだ何者でもない二人が、若い野心と人に言えない出自を明かしていく過程は青春小説らしい。松山に来たばかりの鈴木が読んでいる司馬遼太郎(しばりようたろう)『坂の上の雲』が象徴的だ。この本の登場人物である秋山好古(あきやまよしふる)、真之(さねゆき)兄弟、俳人正岡子規(まさおかしき)たちは生まれ育った松山からやがて明治日本の近代化に関わっていく。さりげなく清家と鈴木の行く先を暗示させる。
ところで政治家を目指す清家をサポートするのは鈴木だけじゃない。清家の母・浩子(ひろこ)、そして彼の恋人・美和子(みわこ)だ。
「もう彼には鈴木さんもお母さんも必要ないんですよ」
清家を自分がコントロールして政治家へと仕向ける、と堂々宣言する美和子の勝ち誇った姿を想像し、ふと自分の中のどす黒い感情があふれ出した。
この感じには覚えがある。
誰かと関係する時、人はある感情に飲まれてしまうことがある。
相手を自分の一部のように扱い、相手の名誉を自分事にしたい
魅力ある相手を自分の思うままにしたい。相手を自分の一部のように扱い、相手の名誉を自分事にしたい。鈴木、浩子、美和子の三人が清家に共通して抱いているのはそんな名付け難(がた)い感情だ。
親子、夫婦、友人、師弟、どんな人間関係でも名付け難い感情は忍び寄り、いつのまにか心に巣食って、相手を支配したがり、時間をかけて関係をゆがませていくやっかいな感情。感染すると体内で増殖していくウイルスのようだ。それも感染力は半端(はんぱ)なく強い。
たとえば単純な自己顕示欲ならSNSで「こうありたい理想の自分」をアップすれば、気軽に承認欲求を満たせる。誰にも迷惑はかけないし、誰も支配しないのだから、はるかに健康的だ。
どんな人も他者への嫉妬、妬みや嫉みから逃れられないもの。名付け難い感情が生まれるのは相手が自分の思い通りにならないからだろう。
そこで自分が相手と一体化すれば、名付け難い感情は生まれなくてすむ。誰も自分自身に嫉妬したり妬んだりはしないのだから。
つまり空っぽに見える清家をコントロールし、思い通り政治家になってくれたら、彼をコントロールしている主の虚栄心は満たされるということ。
清家一郎という政治家は、完璧にコントロールされてしまった!?
ここまで完璧にコントロールされてしまっている空っぽの清家が気の毒になってしまう。
冒頭で政治家と俳優は似ている、と記したが、清家は政治家より俳優に近い気がする。
わたしの考える名俳優とは「演技しない」俳優。与えられたセリフを自分の口を通してオリジナルのものにしてしまう。俳優本人と役柄の境界があいまいになり、俳優の言葉か役柄の言葉か、わからないくらい「演技」を感じさせない人。
もうひとつ、自身が俳優の端くれとして言うと、役柄を演じるとは、自分自身のパーソナリティを封印するのとセットだ。
どんな人でも「無(な)くて七癖(ななくせ)」というが、俳優はその癖すらも無くし、役柄の癖を取り入れていく。歩き方、笑い方、口癖……役柄に浸透することで自分の気配を消していく。
高校の生徒会長選挙で、鈴木の書いたスピーチ原稿を自分の言葉にしてしまった清家はまさに天性の名俳優だった。
どんなホラーよりも恐ろしい結末
先に解説を読まれている方には、この先は本書の読了後にお願いしたい。
第四部で浩子は自らについて、そして政治家となった息子一郎について語り始める。ここまでの物語の見え方が変わる秀逸な構成だ。
異国から母娘で日本へたどり着き、異端の存在として苦労を重ねてきた母の気持ちを背負い、自分の欲望も他人の感情もすべてを思い通りに操りたい、と思うまでになったこと。
浩子自身が、母にコントロールされてきた過去を持ち、息子の父である和田島も思いのままにしてきたこと。
圧巻なのはエピローグでの清家の独白。
彼がカリスマ的魅力の持ち主であるのは明白だ。ゆえに清家に魅せられた他者は彼を自分のコントロール下に置きたくなるのだろう。
言い方を変えれば、清家という存在によって他者の心は操られてきた。
そして清家は長けた演技力で官房長官につき、次は内閣の頂点の座に手をかけようとしている。
いまや彼を操る人はいない。では何のために政治家を演じ続けているのか。
大きな権力を手にした後、何をしようというのか。そして何を操ろうとしているのか。
どんなホラーよりも恐ろしい小説だ。
中江有里(俳優・作家・歌手)
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