作家デビューから40年、一貫して女性の恋愛や友情、生き方を描いてきた唯川さんが、満を持して故郷・金沢を舞台に紡いだ最新作『おとこ川をんな川』が10月23日(水)、ついに刊行になりました。
昭和初年の金沢の花街を舞台に、芸妓として強く、しなやかに生きる女性たちの姿を描いた連作長篇です。
刊行に先立ち、本作の魅力を皆さんに感じていただくべく、本書収録の第2話「かそけき夢の音」の冒頭を無料公開します。
金沢はひがしの茶屋街、置屋「梅ふく」の芸妓・トンボはある日、同じ歳で双子のように生きてきた朱鷺(とき)から、カキツバタが咲く音を聞きに行かないか、と誘われる。なんでもその音を聞くと願い事が叶うというのだが……。
寝巻に着替え、布団に潜り込んだところで朱鷺が言った。
「なぁトンボ、カキツバタが咲く時、ポンって音がするって聞いたことある?」
とうに午前二時を回っている。
「うん、まあな」
「じゃあその音を聞くと願いごとが叶うっていうのは?」
「それは初めて聞く」
もう瞼は重い。今夜は四つの座敷を掛け持ったのですっかり疲れている。
「そやからあんなにたくさんの人が、兼六園にカキツバタの開く音を聞きに行くんやて」
兼六園の唐崎の松と玩月の松の下にカキツバタが群生している。この時期次から次と花を付け、早朝からその開花の音を聞きに行く酔狂な人がいるという話は知っていた。が、願いごとが叶うなんて初耳だ。
「誰が言っとったたん」
「お客さんから聞いたが。知っておいでるお姐さんもいらしたよ」
「ふうん」
どうせ酔客の戯言に決まっている。花街では、願いごとが叶うだの幸運が舞い込むだの、そういった風聞はすぐに広まる。そんなものと縁の薄い芸妓たちだからこそ、格好の話題となる。
「ひょうたん池にもカキツバタがたくさん咲くよな」
「そうやな」
ひがしの花街から卯辰山へ登る山道の途中に池がある。その名の通り、ひょうたんの形をしていて、今の季節になると水際を埋めるようにカキツバタが花を付ける。
次に朱鷺が何を言うか、トンボはもうわかっていた。
「明日の朝、聞きに行かん?」
そして自分がどう答えるかもだ。
「いいよ」
「ほんと、よかった。そんなら五時前には起きんとな」
朱鷺がはしゃいだ声を上げた。正直なところ、置屋の朝食が始まるまでゆっくり眠っていたいのだが、朱鷺の頼みとなれば仕方ない。
浩介との別れ以来、どれだけお座敷で愛想を振り撒いていても、暗い影が朱鷺を包み込んでいた。夜中、布団の中で声を押し殺して泣いていたのも二度や三度ではない。声を掛けようにもうまく言葉が見つからず、トンボはただ黙って寄り添っているしかなかった。そんな朱鷺が少しでも気が晴れるというなら、カキツバタを見に行くぐらいおやすい御用ではないか。
翌朝、ろくに眠らないままふたりは梅ふくを出た。辺りはまだ薄暗く、ひんやりと湿った空気が通りを覆っていた。人影はなく、物音ひとつしない。花街はまだ深い眠りの中にある。
ひょうたん池には子供の頃によく行っていた。めだかを追ったり子亀を見つけたりして遊んだものだ。しかしそれもたあぼの頃までで、十二歳で振袖芸者としてお座敷に出るようになってからは、そんな機会もなくなった。
天神橋まで出てふたりは坂道を登り始めた。相変わらず石ころだらけの荒れた山道で、下駄の鼻緒が食い込んで指の付け根が痛くなった。
十五分ほど登るとひょうたん池が現れた。周りを背の高い木々が囲み、新緑が風に揺れて白い葉裏を覗かせていた。池はさほど大きくないが、澄んだ水をたっぷり湛えていて、かつての様子と少しも変りない。水際には、みっちりカキツバタが咲いていた。
「きれいやなぁ」
朱鷺が声を弾ませた。
「開きそうなのはどれやろ」と、花を覗き込みながら水際に沿って奥へと進んでゆく。その後ろをトンボはあくびをこらえながら付いていく。池を半周ほど回ったところで、朱鷺はようやく足を止めた。
「この辺りのなんか、今にも咲きそうや」
朱鷺が生い茂った雑草の中にしゃがみ込んだ。もちろんトンボもそれに倣う。
「これから喋ったらいかんさけね。聞こえるのはすごく小っちゃい音っていうから、しっかり耳を澄ませんと」
「わかった」
朱鷺が胸の前で祈るように指を絡めて目を閉じる。しばらくトンボも同じようにしていたが、すぐに飽きてしまった。そっと薄目を開け、水面を泳ぐ鳥や雲が空を流れていく様子にぼんやり眺め入った。
向こう岸に女が現れたのはそんな時である。女もまた、水際のカキツバタを覗き込んでいる。物好きというのはどこにでもいるらしい。
最初は同じひがしの芸妓かと思ったが、顔に見覚えはない。髪形や着物の崩し方から堅気でないことは確かなようだ。女はトンボたちに気づくことなく、さかんに花を見回している。
その時、朱鷺がはしゃいだ声を上げた。
「聞こえた。確かに今、ポンって鳴ったわ」
弾んだ声で言った。
「そう、よかったな」
「あんたは聞こえんかった?」
「まあ、聞こえた気もせんでもないけど」
トンボはとりあえず返しておく。
「そんならよかった。これで早起きして来た甲斐があったというもんや」
朱鷺は満足そうに頷くと、やけにしみじみとこんなことを言い出した。
「カキツバタって花は別々に咲いていても、根っこはみんな繫がっているんやて」
「へえ、そうなんや」
「あたし、それ聞いて何やら似とるなぁと思ったが」
「似とるって?」
「あたしら芸妓と。いろんな事情を背負ったいろんな芸妓がおるけど、何だかんだ言ったって、みんな根っこのところは同じなんやって」
「ふうん」
すぐには意味がわからない。
「だからな、あたし決めたが。みんなも辛いことたくさん抱えとるんやさけ、自分だけが不仕合せやなんて嘆くのはやめとこうって」
「そうか、うん、そうや、その通りや」
何にしても朱鷺がその答えに行き着いたのであれば、トンボは安堵するばかりだ。
朱鷺が満足げに立ち上がった。
「さ、そろそろ帰ろ。あたし、もうおなかぺこぺこ」
トンボも立って、ひとつ大きく背伸びをした。長い時間しゃがみ込んでいたせいで、ふくらはぎがじんじん痺れている。気が付くと、向こう岸の女の姿は消えていた。
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