2024年10月31日(木)に締切が迫る公募型新人賞、松本清張賞。
前回(第31回)の受賞作、井上先斗さんの『イッツ・ダ・ボム』(最終選考時のタイトルは「オン・ザ・ストリートとイッツ・ダ・ボム」)は9月10日に刊行されました。この記事では、第31回の選評をお届けします。
選評 阿部智里
『エゴイストは誰か』は、些細なミスで幼い娘を亡くした父親が主な視点人物だ。その「区切り」として、妻から「売春」を命じられることがひとつの謎として提示される。序盤から読者を引き込む力は大変強く、意味深なタイトルと合わせて「奥さんの狙いは何か」がテーマを担うものと期待して読み進めた。しかし、後半の伏線回収が苦しい辻褄合わせになってしまっており、肝のはずの作中人物の動きにも疑問が残る。昨年に引き続き、題材選びはいいのにどうしても謎解きの処理が甘い。謎解きは「謎の提示」と「解決」が両輪で機能して初めて作品の魅力となる。素材にこだわるあまり、料理を生焼けで出すのはまずいのではないか。
『もも』は戦前~戦後の時代を舞台とする。「霊視」が出来る若き僧とその父親がメインかと思いきや、役場で徴兵関係の仕事を担う男とその男に妻を寝取られた兵士の関係がほぼ同等の重さで描かれる。あの時代、無数の人々に筆舌に尽くしがたい苦しみがあったことを切々と描きながら、それと交互にくる形で不倫の描写に紙幅を割き、「妻を奪われた」憎悪に物語が収斂していく構成は理解が出来ない。戦争孤児の描写など良いと感じる部分もあるが、メインの人物の心の動きには納得感が得られなかった。作者に書きたいものがあるのは分かるが、前回以上に読者の私にそれが伝わってこなかったという点で、エンタメとして「評価不能」とせざるを得ない。
『高宮麻綾の引継書』はビジネスコンテストの優勝企画を没にされてしまった主人公が、その原因となった過去の事件の真相を追っていく。ミステリーというよりも「お仕事小説」としての面白みを強く感じた。完成度と熱量の双方を兼ね備えており、読後の満足感も非常に高い。主人公の性格が強烈なので前半は読んでいて辛くなってしまったが、それも後半の成長によってカタルシスとして昇華されている。選考会の席上で出た「『そんな人いない』ではなく『こんな人苦手』となるのはキャラ立てがうまい証拠」という声はもっともである。現代らしい題材とキャラクターの口調がちぐはぐなのは現実感を削ぐため、改善したほうが読み手のストレス軽減に繋がるはずだ。
『オン・ザ・ストリートとイッツ・ダ・ボム』は、謎のグラフィティライター・ブラックロータスを中心とした物語だ。モチーフの適切な扱いと落ち着いた筆致に対し「小賢しく生き抜くことの何が悪いの? それを古い価値観でもって上から目線で批判するほうがダサいじゃん?」という、怒りに似たものを感じた。共感する部分があるゆえに、それに敗北した側の描かれ方には「逆に推しにくくなった」と感じたのだが、選考会では「どういう感想が出るかも含めて、これ自体がブラックロータスの作品のようだ」「この作品は、今世に出すことに意味がある」という意見が出た。総論じみた感想になるが、今、世に出して真の意味を持つ作品ならば、これこそが今回受賞すべきだったということだろう。
選評 森見登美彦
受賞作「オン・ザ・ストリートとイッツ・ダ・ボム」は、グラフィティ(自分の名などをスプレー等で街中に書く行為)を題材としている。前半は「ブラックロータス」というグラフィティライターの活動を追うルポルタージュという形式を取っており、様々な立場の人間たちへの取材を通して、グラフィティという社会現象が立体的に見えてくる仕掛けになっている。そのように周到な下準備があるからこそ、後半、新旧二人のグラフィティライターの対決がいっそう深く、美しいものに感じられるのだろう。抑制のきいた文章も好ましく、構成にせよ、文章にせよ、作者の目が隅々まで行き届いていることが分かる。正直なところ、現代のグラフィティ事情と本作の内容がどれぐらい合致しているのか、私には判断ができない。しかし、クリーン化していく社会の中で、「自分が今ここにいること」をどうやって訴えるかという物語は、多くの人が興味をもって読めると思う。
「高宮麻綾の引継書」は、食品原料の商社に勤める主人公が、自らの企画を実現すべく奮闘するという物語である。いわゆるお仕事小説というジャンルになるのだろうが、作者のサービス精神が満載で、じつに手間のかかった作品だった。親会社や下請け企業との駆け引き、同期との出世争い、もみ消された過去の事故をめぐる謎解き等々、エンターテインメントとしての要素が「これでもか」と盛りこまれている。気になった点といえば、主人公の高宮麻綾があまりにも身勝手でヒステリックなことで、ほとんど共感できなかった。しかしキャラが立っていることはたしかであり、これは個人的な好みの問題かもしれない。今回は「オン・ザ・ストリートとイッツ・ダ・ボム」のスマートさを取ったが、本作のサービス精神や分かりやすさは素晴らしいと思う。これからも書き続けてほしい。
「もも」は太平洋戦争の時代を背景にして、二つの物語が交互に語られる。ひとつは、「死者の声を聞く」という不思議な力をもった「六郎」の物語。もうひとつは、会津の村役場に勤めながら、知人の妻への想いに悶々とする「肇」の物語である。肇の鬱屈した暮らしや、六郎が送られる南方の戦場の描写はとてもいい。異様な気迫の籠もった作品で、とりわけ前半はぐいぐいと引きこまれた。読者としては当然、並行して進む二つの物語が交差する地点に、この小説の核心が浮かび上がることを期待する。しかし本作の場合、その核心はあまりに独特なものである。どうして「肇」と「六郎」の物語が結びついているのか、その答えは作者の心の内にあって、客観的な理解を拒んでいるように思える。エンターテインメントの枠組みに収まっているとは言えず、推すことはできなかった。
「エゴイストは誰か」は、同作者の前作よりは小説としての軸がたしかなものになっていると思う。それでも読後の印象がボンヤリしていることは否めない。「妻が夫に『売春』をさせる」というのは好奇心をそそる導入だと思うのだが、そのアイデアがあまり大きな意味を持っていないのは残念だった。気になるのは、全体的に登場人物たちの存在感が希薄なことだ。たとえば、妻に売春させられる夫の葛藤や行動も、納得のいくように書かれているとは思えない。ひとりひとりの登場人物が「生きてそこにいる」という感じがしなくて、作者の都合によって動かされているという印象が拭えなかった。
選評 森絵都
一つのカルチャーを追いかけ、捕まえ、それを読者にも体感させる。その筆力の確かさに於いて、受賞作の『オン・ザ・ストリートとイッツ・ダ・ボム』が優れた作品であることは間違いない。第一部で「グラフィティとは何か」を多様な角度から示し、第二部でグラフィティライターの内面に迫る。その構成も見事なものだった。とりわけ私が引きつけられたのは、TEELが一人、〈感性とタイミングが噛み合う、世界の空隙のような場所〉でボムをしてまわっている描写だ。読んでいて爽快な行為は、やっている本人もさぞ爽快なことだろう、と理屈抜きでグラフィティの醍醐味が伝わってくる。しかし、一方でブラックロータスの描かれ方に関しては、彼が街に刻んだ一連のボムがあれほどまでに世間を騒がすものであったのか、等の疑問も残った。又、ブラックロータスとの対決の果てにTEELが行きついた心情も、私には掴み難かった。リーガルの領域に踏み留まろうとしていたブラックロータスは、過熱していったボム合戦の末に、TEELの領域であるイリーガルに転じたのではないか。それはTEELにとって真に敗北を意味するのだろうか。そこがクリアになればクールなラストシーンもより生きてくるのではないかと思う。
特異なキャラクターの主人公を序盤で大暴れさせ、読者の心を掻き乱し、それを逆手に取る形で後半の展開をよりドラマティックにうねらせていく。その構成力に於いて、『高宮麻綾の引継書』は非常に良くできた作品であり、私などは見事に感情をコントロールされたクチである。ストーリー、作中人物の造形、文章力、すべてがプロの水準に近く、キーワードとなる「引継書」の使い方にもセンスが光る。ラストの謎解きにも厚みがあり、読後感もいい。全体的な完成度の高さを買い、私はこの作品を一推しした。惜しくも受賞は叶わなかったが、これだけの長編作品を最後まで飽きさせずに読ませる力を持った作者の次作に期待したい。ただし、高宮麻綾のような強烈な個性は諸刃の剣であり、途中で読者の心が挫ける可能性も念頭に置いてほしい。
去年の候補作よりも確実に表現力が磨かれ、場面の一つ一つに臨場感と迫力がある。その筆致の巧みさに於いて『もも』には目を引くものがあったが、作品全体を貫く芯に欠けていたのが惜しかった。六郎は父から植え付けられた「利行(りぎよう)」の教えを守り、自分よりも他者のために生きようと、死者たちを供養し続けた。にも関わらず、父の厳しい教育の原点にあるのが「亡き妻を安心させたい」というパーソナルな感情に過ぎないというのはあまりに残念である。細部を描写する力は十分にある。次は小説全体を俯瞰する客観性が欲しい。
冒頭から読者の気を引き、最後まで牽引していく。その腕力の強さに於いて、去年の候補作に引き続き、『エゴイストは誰か』の作者には天性の資質を感じる。おや、と思わせる設定や謎の配置が実に巧い。ただし、これまた去年に引き続き、その謎解きに説得力がなく、万事ご都合主義の感が否めない。ラストは力尽くで良い話に持っていく、というこの作者特有のパターンが私は段々と面白くなってきたが、問題はそこに至る過程なのである。
選評 辻村深月
『オン・ザ・ストリートとイッツ・ダ・ボム』と『高宮麻綾の引継書』という趣がまったく異なる二作の間で、心が揺れに揺れた。
『オン・ザ・ストリートとイッツ・ダ・ボム』はストリートアートの世界を、ブラックロータスという謎めいた存在を軸に置いて描く大変クールな物語。まるで寓話のような過不足ない美しさがあり、一読して、今回の受賞作はこれだと感じた。題材の見つけ方、導入、構成、ともに見事で、ドライな文体が、読者の目に「この場面をどう見るのか」─「感じるもの」「見えるもの」を問いかけ、委ねるのに成功している。ただ、小説としての力が圧倒的であるがゆえに、読み手の力量を問う部分も大きく、すべての読者にあのラストの切れ味が届くかどうか、という点が気になった。通常の選考であれば、おそらく気にすることのない点だったと思う。
迷ったのは、同じ回に『高宮麻綾の引継書』があったためだ。完成度が高いエンターテインメント作品で、こちらの作品は著者が意図した通りに読者の感情が導かれ、動く。興味を引きつける方向性、怒りや感動のポイントの提示が明確にある。構成の密度、キャラクター設定ともによく練られていて、著者はエンタメの世界で即戦力の書き手となる力量の持ち主だと感じた。キャラクターの造形や話し方が紋切型であるという指摘も多くあったが、その点さえ、読者へのわかりやすいサービスのように読めてしまう。対照的な二作のどちらを選ぶか、というのが選考会では議論の大半を占めた。
……すると、なんだかまるで、ブラックロータスに敗れるTEELの気持ちに近い心持ちが選考会中に訪れたんですよ、井上さん(※受賞者)。この感情がどういうものか、皆さまには、詳しくは井上さんの受賞作をお読みいただきたいのだが、思いがけずそう感じたことで、『オン・ザ・ストリート~』が内包する衝突と感情の普遍性、骨太な哲学がより迫り、受賞作の決定に同意した。─とはいえ、どちらの作品も大変読み応えがありました。城戸川さん、いずれは『高宮麻綾の復命書』なんかもどこかでぜひ読んでみたいです。
『もも』も不思議な読み心地の小説だった。戦地で死者の声を聞く場面や、怨嗟の意思に引っ張られていく描写に鬼気迫るものを感じたが、多くの無念を抱え、浮かばれない霊が数多いる中で、なぜ、笹原武夫の思いだけがああまで際立って主人公に憑りついたのか、という必然性の甘さがどうしても気になった。構成が複雑であるがゆえにどこにつれていかれるかわからない危うさがあり、読んでいる最中はそれがおもしろくもあるのだが、着地として読者に何を提示できるのかを次はもっと意識してみてほしい。
『エゴイストは誰か』。導入がおもしろく、主人公に突如降りかかる妻の謎めいた要求の真相が非常に気になって読んだのだが、その期待に真相が追いつかなかった印象。思わせぶりな傘の伏線など、読者の興味を誘う描き方がとても上手なので、次はその伏線や要素をより活かせる構成の物語を、ぜひ。
選評 米澤穂信
『オン・ザ・ストリートとイッツ・ダ・ボム』と『高宮麻綾の引継書』が受賞を争った。選考の始まりから終わりまで、この二作は常に僅差だった。
『オン・ザ・ストリート~』は、グラフィティという小世界を通じて今という時代を描き出した。さまざまな小説が「今」を捉えようとし、しかし捉えきれずに、既視感のある社会問題を引用するに留まってしまう。その一方本作は書くべき材料を現実から見つけだし、自分なりの言葉で今の一側面を描き切った。アートがついに「で、いくらなの?」という問いを乗り越えられない現代において、この小説で描かれたほどの力をアートが持ちうるかはわからないが、それゆえにこの小説はどこか寓話めき、その乾いた文章と描写とが相まって忘れがたい印象を読者に残す。
『高宮麻綾の引継書』は、仕事というものに対する解像度が高い。業務内容、手順、手続き、人間関係に至るまで、確かにこうしたことはあるだろう、こういう人はいるだろうと納得がいく。小説の中で起きるイベントが多く、状況は刻一刻と移り変わって読み飽きしない。構造もお手本のように整っている。文章にも味があり、三人称でありながら一人称であるかのように主人公の内心にうまく寄り添っている。総じて達者な小説で、読み終えれば誰もが爽快感をおぼえること請け合いだ。
どちらを選ぶべきか、議論は紛糾した。『高宮麻綾~』の方がより完成されていると推す選考委員もおり、議論を分けた決定的なポイントというものはなかったように思う。私は――自分の方が優位であることを思い知らせるためにわざと音を立てて受話器を置く『高宮麻綾~』の主人公とは一緒に仕事をしたくないと思ったが、それで点を引くこともしなかった。人の心が人らしく描けていないのならともかく、描けているのなら、個人的な好悪を小説の評価に持ち込むことはできない。
強いて挙げるなら、小説が到達した地点には差があったかもしれない。主人公が毎回絶体絶命の状態に陥り、そのたびに誰かに助けられる『高宮麻綾~』は、どこか連続ドラマを思わせる。ほかの選考委員の、これはさまざまな大ヒット作の面白さを巧みに学び取ったもので本作独自の発明はないという指摘には、頷かざるを得なかった。むろんそれが悪いわけではない。ただ、より人の通わぬ道を拓き、見覚えのない、しかしたしかに人間らしい心境を描き出して、その小説だけの終着点に辿り着いた『オン・ザ・ストリート~』により多くの点が入ったのは、意外なことではなかった。これはささやかな犯罪小説であり、よい都市小説だ。
『エゴイストは誰か』は、ショッキングな展開が連続して華々しいけれど、辻褄があっていない。殺人は人違い、ダイイングメッセージは気のせい(でなければ矛盾が生じる)、これではミステリにならない。派手なことをして読者の興味を惹こうという欲が、小説を殺してしまっている。作者に力がないとは思わない。派手さ、意外さでミステリを書いていくのではなく、誰がどの時点で何を知っていたのか、一つ一つ確認しながら着実に書いてほしい。派手さでデコレーションするのは、最後でも構わない。
『もも』は、小説の形が間違っていたと思う。残念ではあるが、二視点で書いたからこそこういうものが描けた、と言えるものを見つけられなかった。
なお、城戸川りょうさんの「高宮麻綾の引継書」は2025年3月に文藝春秋より書籍化予定です。そちらもお楽しみに!
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