- 2024.11.04
- 読書オンライン
「スター・ウォーズ」もびっくりの反フセイン反乱軍の知られざる戦いとは? イラクの巨大湿地帯で繰り広げられた“もうひとつの裏歴史”
高野 秀行
高野秀行 特別インタビュー
本年、第34回Bunkamuraドゥマゴ文学賞に輝いた高野秀行著『イラク水滸伝』。選考委員の桐野夏生さんが「辺境中の辺境に挑んだ怪物的著作。文句なしに面白い!」と激賞する本書は、イラク南部に広がる巨大湿地帯〈アフワール〉の謎に挑んだ、世界的にみても画期的な一冊だ。謎の古代宗教を信奉するマンダ教徒、水牛と共に生きる遊動民マアダン、フセイン軍に激しく抵抗したアウトローたち……驚嘆の旅の裏側を語った特別インタビュー。
(初出:文春オンライン2023年7月29日)
◆◆◆
豪傑たちが集まって政府軍と戦う『水滸伝』を彷彿させる湿地帯
――これまで世界各地の辺境地に挑んできた高野さんですが、今回なぜイラクだったのでしょうか。
高野 ティグリス・ユーフラテス川の合流地点に広がるイラクの巨大湿地帯に関しては、イギリスの探検家セシジャーが1950年代に旅をした『湿原のアラブ人』という本で、ずいぶん前から知っていました。ただ、フセイン政権によって湿地帯は壊滅状態になったと漠然と聞いていたので、とくにそれ以上の興味を持っていませんでした。
ところが2017年1月、朝日新聞の「砂漠の国 文明育んだ湿地」と題した記事で、アラブ人が水上を小舟で行き交い、水牛が泳いでいる写真を見てびっくりしたんです。とっくに失われたと思っていた湿地帯が復活し、水の民が今も暮らしていることに。早速記事を書いた記者に連絡をとって、2日後には会って話を聞いていましたね。
アラブ人といえば砂漠の民なのに、この古代メソポタミア文明発祥の地では、水の民が水牛を飼い、舟で移動し、生活している。しかも戦車や軍隊が入れない湿地帯は、昔から権力に抗うアウトローや戦争に負けた者、迫害されたマイノリティが逃げ込む非常にユニークな場所でした。
――さながら『水滸伝』状態なわけですね!?
高野 そう、まさに豪傑たちが湿地帯に集まって政府軍と戦った『水滸伝』を彷彿とさせる地です。世界史上には、ベトナム戦争時のメコンデルタ、ルーマニアのドナウデルタなど、こうしたアナーキーで、レジスタンス的な湿地帯がいくつも存在します。
さらに調べてみると、90年代のフセインの破壊以降、この湿地帯〈アフワール〉についてのまとまった一般的な報告は世界的に見てもなにもない。ものすごく面白そうだなと思い、イラク行きを決意しました。
――でも今から5、6年前だと、まだイラクの治安がかなり悪かった頃ですよね。
高野 当時は爆弾テロが頻発していて、拉致事件もよく起きていましたから、イラク国内の街に外国人はほとんどいませんでした。グリーンゾーンという米軍が警備する特別なエリアに政府関係者やジャーナリストが滞在しているくらいで。
イラク人の保証人がいないとビザがとれなくて入国にすごく苦労しましたし、現に滞在先のある場所ではほんの2週間違いで爆弾テロが起きました。現地の宿泊先の友人のお兄さんが強盗団に襲われる事件もあって大騒ぎでしたし。市内で普通の民家に泊まって地元の食堂でご飯を食べている外国人は僕らくらいでしたね。
舟大工を探しに謎の古代宗教・マンダ教徒に会いに行く
――行くだけでも大変な場所で、なぜ舟で湿地帯をめぐろうとしたんですか?
高野 今回、旅のパートナーとして、探検部OBの山田高司さんに同行してもらっているんですが、世界各地で川めぐりをしてきた探検界のレジェンド的存在です。その昔、山田さんが1997年に立ち上げた環境NGOに私がスタッフとして参加したことがあって、そのとき今度2人で大河を舟旅しようと約束していたんです。
旅の計画段階で、湿地帯の動画を山田さんに見せたら、「えー舟やな、えー舟大工がいるな」と土佐弁でいう。実家が四万十川にある山田さんならではの鋭い着眼点でしたが、だったら現地の舟大工に伝統的な舟をつくってもらって旅をしたら面白いんじゃないか? 山田さんとの20年越しの約束も果たせるんじゃないかと思ったわけです(笑)。
そこでまず、アフワールで伝統的に舟大工を担っていたのがマンダ教徒だったという情報を得て、謎の古代宗教を信奉する彼らに会いに行きました。
――謎の古代宗教?
高野 マンダ教はもともとはユダヤ教の新興宗教のようなかたちで現れて、原始キリスト教とも関係があったと言われていますが、非常にユニークな教義を持っています。人間は位の低い神が間違ってつくったもので、つくったものの起動しないから「光の世界」から魂を持ってきて入れた。だから死ぬと魂はもといた「光の世界」に戻るという、まるでウルトラマンやエヴァンゲリオンを足したような世界観です。
迫害を受けて湿地帯に逃げ込み、2000年近くひっそり隠れて暮らしてきたマンダ教徒たちは、古代シュメール人さながら、粘土と葦でつくった家に住み、死者の手にはお守りを握らせて送るんですね。
国の政情もカオスだが、内側には境界のない湿地帯というカオスが…
――そうしたものが温存されていること自体が奇跡的ですね。
高野 しかも、マンダ教徒の舟大工がまたすごかった。舟の肋骨の切り方も釘の打ち付け方も、もうびっくりするほど適当で、私が中学生のときにつくった犬小屋のほうがマシなレベル(笑)。舟づくりの顛末は本でお読み頂ければと思いますが、こんなものが浮くのだろうかと不安を覚え、カオスに飲み込まれていくような感覚でした。
湿地帯では自分の中の自然観がゆがんでいきましたね。自然って普通は山や川や海の境界があって、輪郭をもって感じられるもの。ところがアフワールはどこからが湿地帯なのか全くわからない。年によって水の増減が激しく、カラカラの荒れ地も雨が降ると一気に湿地帯に変容するし、住んでいる人達に聞いてもみんなどこからが湿地帯なのか答えられない。
イラクは「カオスの二重構造」としか言いようのないものでした。イラクという国自体が政情不安定で混乱しているし、さらにその内側に境界のない湿地帯というカオスが広がっている。とくにフセインが一度水を堰き止めてアフワールを壊してからは、湿地帯が回復なかばで、とにかく茫洋としていました。
「湿地帯の王」がコミュニスト仲間とともに反政府ゲリラ戦を展開
――フセイン軍に抵抗したアウトローたちについても教えてください。
高野 私が取材した「湿地帯の王(アミール)」ことカリーム・マホウドは、イラク国外ではほとんど知られていませんが、80年代末からフセイン政権崩壊までアフワールで反政府ゲリラ活動を行っていたことで有名な人物です。
彼は「新しい政党をつくりたい」と周囲に話していただけで、フセイン政権下で8年も投獄されていたのですが、興味深いのは刑務所でチェ・ゲバラや毛沢東の本を読み込んでいたこと。思想犯として捕まっていたコミュニストたちとともに。
出所後、コミュニストの仲間たちとともにアフワールに入ってゲリラ戦を展開。多いときは1300人規模の仲間で、政府軍から奪った爆弾やロケットランチャーで戦っていたという。イラクは中東のなかでも共産党が強くて有名なところですが、湿地帯の貧しい人たちに共産主義は訴えるものが大きかったのだと思います。アミールは「湿地民ほど親切で情に篤い人たちはいない」と彼らの助けに感謝していましたから。
湿地帯に逃げ込んだ反フセイン反乱軍の戦い
――イスラム主義の反体制ではなく、実は湿地帯がコミュニストの牙城だったとはすごい話ですね。
高野 その背景には、コミュニストの教師は冷遇され、左遷のような形で湿地帯に赴任させられますから、湿地民のあいだで共産主義教育が浸透していたこともあるようです。
さらに興味深いのは、湾岸戦争直後、多国籍軍によって敗北したイラク軍がクウェートから撤退する途中、反フセインの反乱軍が結成され、民衆も支持したんですね。自分たちが立ち上がれば米軍が助けてくれると信じて。ところがアメリカはフセインを潰すとすぐ隣の宿敵イランを利することから、動かなかった。
形勢が逆転し、フセインの部隊の武装ヘリにより反乱軍は鎮圧。何万人もの兵士とシーア派住人が死に、生き残った人々は湿地帯に逃げ込みました。残党の息の根をとめるべく、フセインは91年からアフワールに流れこむ水を堰き止めますが、アミールいわく「戦うのには全然問題なかった」。ベトコンのごとく乾燥した地下にトンネルをほって隠れ、やってきた戦車に爆弾を仕掛けて破壊したのだとか。しかしその後、イラン側にも水をとめられアフワールは追い込まれていったんです。
歴史に「もしも」はありませんが、湾岸戦争後、アミールのような反骨精神あふれる好漢たちがフセインの独裁政権を倒せていたら、イラク人による主体的な国づくりが実現し、イラクはこれほどまでにめちゃくちゃになり多くの人命が失われなかったんじゃないかと思います。
――「スター・ウォーズ」もびっくりの反乱軍の物語には、中東史の思わぬ裏側が浮き彫りになりますね。湿地帯はどのように回復したのでしょうか。
高野 私が行動を共にしていた、NGOネイチャーイラクの現地代表ジャーシムは尋常でない「湿地愛」に溢れた人でした。浮島で生まれ育った彼は生粋の湿地民で、水資源省で水利専門の技術者として働いたあと、湿地帯の復興に力を注ぎます。フセイン政権が倒れたあと、新政府と現地の人々で水を堰き止めていた堤防を破壊したり水門をつくったこと、またジャーシムが荒療治として打ち出した、ユーフラテス川の水を流入させる施策で、かつての7割ほどにまで湿地帯を蘇らせたんです。
水牛と共に生きる人々の「持続可能」な生活
――それで水牛も戻ってこれたんですね。
高野 現在の湿地帯には、いたるところに水牛がいます。そこで出会った、水牛と共に生きる民マアダンの人々の「持続可能」な生活の仕組みには本当に目をみはりました。自生する葦を主食とするため大規模に一箇所にかたまったりすることはなく、各群れはほどよく分散して生息している。誰が管理するわけでもなく、水牛と共に暮らすマアダンたちは自然と分散して暮らしている。
牧畜と漁業の理想的な共生関係を「パストピシキュリチュール」と呼びますが、水牛がフンをする→フンが大好物の魚の餌になり、人が生活する上での燃料にもなる→豊かな漁場で水牛の大好きな葦の若葉(ハシーシ)もよく育つ。水牛が一箇所に大量に固まることがないから水質汚染も起きず、持続可能な好循環が生まれる、というわけです。
湿地民の葦の家にいくと、外壁にぺったんぺったんと手の跡がついた牛のフンが貼ってあります(笑)。乾燥させたフンは極めて優れた燃料で、窯の中に放り込んで薪のように使えて、料理をしたり暖を取ったりするのに欠かせません。葦でつくったドーム型のテントのような住まいは、解体して持ち運びも可能なので、水牛とともに移動して引越し先の浮島で、短時間で組み立てられます。
すべてが理にかなっていて、「環境との共生って実は合理的なことなんだ」と気付かされました。
文明と非文明のぶつかり合いが生み出すカオスな魅力
――環境問題を考えるうえでの大きなヒントとなりますね。人類最古の文明のすぐそばでこうした生活が続いてきたことに驚きます。
高野 近くのウルク遺跡では、天体観測や文字を生んだメソポタミア文明の達成をうかがい知ることができますが、湿地民は水牛と共に移動する民だけでなく、都市文明とのあいだで中間的な生活をする人々――湿地に定住しながら都市とも行き来する農民や漁師、マイノリティの技術者も多くいました。
ここには、都市生活か隔絶された自然と暮らすかの二択ではなく、文明には少し距離を取りつつ利便性と自然との共生の折り合いをつける中間的な生き方のヒントもまた隠されている気がします。
また見方を変えれば、湿地帯があったからこそ文明が生まれたとも言えます。湿地帯の乾燥した葦はよく燃える無尽蔵の燃料源でしたから。信じられないけど、ウルク遺跡のジッグラト(聖塔)には4000年前に埋め込まれた葦が残っているのが見えましたよ。
イラク湿地帯には、人類のたどってきたすべての要素が凝縮されています。文明と非文明、人工と自然、国家と反権力。相反する要素がダイナミックにぶつかり合うカオスな地は、これまで私がめぐってきたどんな辺境にもない原初的な魅力がありました。
その“混沌と迷走”に満ちた濃密な旅をみなさんに楽しんでいただけたら、これほど嬉しいことはありません。
▽プロフィール
高野秀行(たかの・ひでゆき)
ノンフィクション作家。1966年東京都生まれ。ポリシーは「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」。『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)でデビュー。『ワセダ三畳青春記』(集英社文庫)で酒飲み書店員大賞、『謎の独立国家ソマリランド』(集英社文庫)で講談社ノンフィクション賞等を受賞。他の著書に『辺境メシ』(文春文庫)、『幻のアフリカ納豆を追え!』(新潮社)、『語学の天才まで1億光年』(集英社インターナショナル)などがある。
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