
オール讀物新人賞を受賞しデビューした平岡陽明さんが、最新長篇『マイ・グレート・ファーザー』を上梓します。人生に行き詰った男が30年前にタイムスリップし、不審な事故死を遂げた父親と再会する、心温まる大人のためのファンタジーです。ご自身の亡きお父様をモデルに描いた本作の刊行に当たり、平岡さんに執筆の裏側とお父様への思いを綴っていただきました。
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◆◆◆
十六歳の晩、父が出奔(しゅっぽん)した。訳の分からないことを母に喚き散らし、「しばらく戻らねぇからな」と捨て台詞を残して、家を出て行ったらしかった。
バブルが弾け、父の事業は行き詰まっていた。もう会社も家も潰すことは目に見えていた。だから父のプライドはズタズタで、このまま車で大黒埠頭や山下公園から海に飛び込むのではないかと母は心配していた。酔うと何をしでかすか分からない人だった。
母は父の行きそうな所へ、虱潰しに電話を入れた。だが行方は判らなかった。やがて心配した従兄のノン君が車で駆けつけてくれた。ノン君は当時大学生で、一駅隣に住んでいた。
「大丈夫? おじさん、何処に行ったの?」
「わかんないの。ごめんね、ノン君まで心配させちゃって」
父が荒れることには慣れっこだったはずの母も、今回ばかりは様子が違うと感じていたらしい。だからノン君に帰っていいよとは言わなかった。私はまだ免許を持っておらず、いざとなればノン君だけが頼りだった。
父は当時珍しかった自動車電話を取り付けていた。しかし何度鳴らしても繋がらなかった。心配することにも疲れ、三人でテレビのスポーツニュースをぼんやり観ていたら、父から電話が入った。時刻は二十三時ごろ。出たのは私だった。
「いま、平塚のステーキ屋にいる」
父の声は思ったより冷静だった。ノン君が待機していることを告げると、「お前らが来るなら、待っててやってもいいぞ」と言って電話は切られた。
ノン君と私で父を迎えに行くことになった。平塚までは車で一時間くらいだろう。外は雨降りだった。横浜横須賀道路に入ったあたりでノン君が言った。
「よくやるよな、おじさんも。こういうこと、よくあるのか?」
「たまに」
「大変だな、お前たちも」
私は肩をすくめたが、正直に言えば、降って湧いたような深夜のドライブに、気分はすこし昂揚していた。
深夜のステーキ屋はガラガラだった。一人でぽつねんと座る父のテーブルには、赤ワインのデキャンタと、ステーキの鉄板。ワインはあまり飲まれた形跡はなく、食べ残した肉は冷めて脂が浮いていた。
「おう、来たか。ここは朝までやってる店でな。このへんで遊ぶ奴はみんな知ってる。俺も若い頃はよく来たもんだ。ハンバーグ食うか? 旨いぞ」
さんざん人を騒がしておいて、なにが「おう、来たか」だよと思った。だが腹は減っていた。それじゃあ、ということで、私たちはハンバーグを注文した。まだ音を立てている鉄板で供されたハンバーグはたしかに旨かった。
「食ったら帰れ。俺はこのままどっか行く。二、三日で帰るから心配するな」
われわれは帰途についた。ノン君は私を家に落とすと、あくびを噛み殺しながら走り去った。結局、本当に平塚までハンバーグを食べにドライブしただけで終わった。
翌々日、父は帰ってきて、伊東競輪に行ってきたと告げた。向こうで親しくなった人と一緒にレースを打ち、酒を飲み、同じ宿に泊まって温泉に浸かったそうだ。そのことを修学旅行の思い出のように語る父は、すっかり灰汁(あく)が抜けていた。この三日間の逃避行で、さまざまな覚悟を飲み込んできたのだと思った。しばらくして父は倒産を受け入れ、自宅も売り払った。
昨年、父を亡くしたあと、右の顛末(てんまつ)がなぜか頻(しき)りに思い出された。父の出奔。横横(よこよこ)道路。伊東競輪。行き詰まった中年男と、旅先での仲間……。本作『マイ・グレート・ファーザー』のモチーフはすべてここにある。
そして物語をつむぎ出したいという心の欲動の奥には、現実では起きそうにないことに対する「if」と「hope」が必ずある。もしあの晩に父が亡くなっていたら。もしもう一度だけ父に会えたら。もし旅先でできた仲間が自分だったら。
その希求と哀悼の気持ちから生じた作品世界を、担当編集者と共に、一文ずつ鏤刻(るこく)することができた。父の霊前へ捧げる佳い一冊となったことに、いまは静かに汐が満ちてくるような充実を感じている。
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▼プロフィール
1977年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。出版社勤務を経て、2013年「松田さんの181日」でオール讀物新人賞を受賞し、デビュー。19年刊行の『ロス男』で吉川英治文学新人賞の候補に。他の著書に『ライオンズ、1958。』『イシマル書房編集部』『道をたずねる』『素数とバレーボール』『ぼくもだよ。神楽坂の奇跡の木曜日』など。
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