
私は非常に狭い世界で生きてきた。
来年還暦だが、生まれてこの方、大阪を出たことがない。もっと言えば大和川を越えて住んだことがなく、ずっと南大阪で暮らしているのだ。泉北ニュータウンで育ち、二度の引っ越しを経て、現在は別のニュータウンに住んでいる。駅からはすこし遠いが、二上山、葛城山、金剛山を望む地で、晴れた日だと山がくっきりと美しく見える。心が晴れ晴れとする素敵な場所だ。
南大阪で暮らす人々が通学通勤でお世話になるのが南海なんば駅である。ここから御堂筋線心斎橋駅までの一帯を「ミナミ」と呼んで『ミナミの春』の舞台となっている場所だ。

「キタ」と「ミナミ」の違いとは?
「ミナミ」に対するのが「キタ」である。梅田、大阪駅一帯を言う。私は北摂の大学に通い、中之島や大阪駅近くで働いていたので、毎日「キタ」にいた時期もある。でも、やっぱりどこかアウェイなのだ。地下鉄に乗って「ミナミ」まで帰って来ると、ようやくほっとしたものだ。
「ミナミ」は正直言ってキタほどオシャレではない。どちらかというと泥臭くて、きっと全国の人たちが想像する「コテコテの大阪」を体現している街だ。でも、私にとってはとてもバランスのいい街だ。ご近所を歩いているような気軽さがありながら、程よいお出掛け感もある。銀座のような「大人の街」ではなく、「渋谷」のような若者の街でもない。中高生からお年寄りまで遊べるゴチャゴチャの街だ。

コテコテ、ゴチャゴチャの代表といえば道頓堀だ。今は巨大看板と外国人観光客向けの店ばかりになってしまったが、大昔は寄席や芝居小屋が並んでいた。私が幼い頃はまだ「角座」「中座」などが生き残っていた。
また、大正時代に建てられたという洋風建築の「松竹座」もある。客席は二階席まであって半円形でコンサートホールのようだった。親に連れられず、はじめて友達と映画を観たのはここだった。たしか一九七八年の「さらば宇宙戦艦ヤマト」だったと思う。ちなみに、夫は幼い頃ここで「風と共に去りぬ」のリバイバル上映を観たという。また、千日前には「蝋人形館」があったそうで、これには驚いた。
ミナミは万博の「正統後継者」だ
私の知る半世紀の間、様々な変化があった。ソニータワー、そごう百貨店、何軒もの映画館や書店、老舗と言われる店が消えていった。また、千日デパート跡はプランタンからビックカメラになり、大阪球場はなんばパークスに、日本橋は電気街からオタクの聖地になった。

特に戎橋筋と心斎橋筋の商店街の変化は凄い。いつ行っても外国人観光客でギュウギュウで、道頓堀の橋の上では必ず誰かがグリコのポーズで写真を撮っている。「道頓堀今井」や「はり重カレーショップ」などは、昔は並ばずに入れたのに今は観光客で行列ができている。
でも、そんな街の変化は必ずしも嫌ではない。あの見境もなく浮かれた人々のパワーに閉口しつつも、高揚してしまう。否応なしに圧倒されると一種の躁状態になるようで、観光客を掻き分けながら歩くときは、気がつくと笑ってしまっているのだ。
一九七〇年の万博で、大阪はたいそう盛り上がった。たぶん、ミナミの街はその正統後継者で、会場に行かなくても毎日が万博なのだ。無論、昭和を引きずってしまったことによるデメリットも大きい。でも「よそはよそ、うちはうち」だ。お節介だけど個人主義、マイペースだけど虎視眈々。力を抜いてやっていけばいい。
「グリ下」の子供たちに思うこと
私は各地のライブカメラを眺めるのが好きで、深夜の道頓堀もよく観る。店が全部閉まってキャッチの兄ちゃんすらいなくなっても、無人になることはない。必ず誰かが映っていて、おばちゃんの自転車が横切ったり、急ぎ足のミニスカの女の子たちや、たむろする若者たちがいる。

近年「グリ下」に集まる子供たちが問題になっている。彼らは一体どれだけ傷ついているのだろうか、と思う。身も蓋もない言い方だが、誰も傷つかずに生きられる社会は理想の中でしか存在しない。だとしても、傷ついたときには受け入れてもらえる社会であるべきだ。間違えた人、失敗した人、傷ついた人を切り捨てず、「かまへん、かまへん」とさらりと流してくれる――。大阪はそんな街であって欲しいと願っている。
ちなみにライブカメラのおすすめは金剛山。深夜になるとたまにイタチやらウサギが映って、なんだか得した気分になりますよ。
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