
国際社会が築き上げてきた「法の支配」が、今まさに揺らいでいる。プーチンとネタニヤフに逮捕状を出したことで注目を集める、戦争犯罪などの重大犯罪を犯した個人を裁く世界唯一の裁判所である国際刑事裁判所(ICC)。所長の赤根智子さんは、6/20に発売になった『戦争犯罪と闘う 国際刑事裁判所は屈しない』の中で、ICCが直面する未曾有の危機と、それでもなお闘い続ける意義を問いかける。ICC初の日本人所長として、彼女は何を思い、世界に何を伝えようとしているのか。
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アメリカによる追加制裁とその理不尽な実態
「6月5日、私はたまたまドイツのベルリンに出張中でした。こちら(オランダ・ハーグ)時間で夜10時過ぎに追加制裁が発表され、私たちは即座に非難声明を出し、対象となった裁判官への連絡に追われました」
赤根さんが語るその口調は冷静だが、当時の緊迫した状況が伝わってくる。アメリカによるICC職員への制裁は、経済制裁と入国禁止を主な内容とする。しかし、その影響はアメリカ国内にとどまらない。
「例えば私が制裁対象になったとします。アメリカに資産はありません。しかし、クレジットカードは一律で使えなくなり、日本の銀行口座からの引き落としすらできなくなる。アメリカの金融取引との繋がりがあるためです。これは明らかに違法な域外制裁であり、私自身の経済的な自由を全世界的規模で制限するものです。日本企業もアメリカの報復を恐れ、私という一個人の取引を切り捨てることを選ぶでしょう」
企業を非難するつもりはない、と赤根さんは言う。問題は、国際法に反する行為をどの国も止められない現状そのものにある。実際に制裁対象となった検察官や4人の裁判官には、個人的な経済活動に大きな支障が出ており、国を超えた送金は一切できない状態だという。

「これほどの屈辱がありましょうか」制裁対象に加えられた裁判官の嘆き
制裁がもたらすのは経済的な困難だけではない。より深刻なのは、人間の尊厳を根底から揺さぶる心理的な影響だ。追加制裁の直後、緊急で開かれた裁判所内の裁判官会議で、対象となった一人の裁判官は涙ながらにこう訴えたという。
「『私は多くの締約国から支持され、ICCが掲げる使命に貢献すべく仕事に邁進してきました。しかし、仕事のせいで、テロリストたちが載る経済制裁リストにISIS(ルビ/アイシス)のメンバーと並んで載せられたのです。自分の裁判官としての、また個人としての尊厳と信奉する価値がものの見事に否定され、おとしめられました。これほどの屈辱がありましょうか。私たちは裁判官である前に一人の人間です。私たちの人間性を否定するような許し難い行為であります』。……彼女が泣きながら訴えるのを聞き、私ももらい泣きを禁じ得ませんでした」
その瞬間、他の多くの裁判官たちもハンカチで目を押さえていたという。今思い出しても胸が詰まる、と赤根さんは言葉を継いだ。

分断を狙うトランプの制裁
今回、制裁対象に選ばれたのはアフリカや南米、東欧出身の裁判官たちだった。一方で、ネタニヤフ首相に逮捕状を出した裁判官のうちフランスの判事や、アフガニスタン関連で該当するはずのカナダの判事は対象から外れた。赤根さん自身も対象ではない。
「これは一体何を意味するか、すぐにお分かりになると思います。第一次トランプ政権の時も、アフリカ出身の検察官と部下だけが制裁対象になりました。非常に選択的かつ差別的な方針であり、締約国や裁判官同士の団結を揺るがしかねない危険をはらんでいます」
この危機に対し、裁判官たちは共同で声明を発表。「外からのいかなる圧力にも屈せず、裁判官の独立と中立性を守り、法の支配を守り抜く」という決意を世界に示した。

揺らぐ「法の支配」を何としても守る
アメリカは「ICCは締約国でない国の国民を捜査・訴追できない」と主張するが、赤根さんはこの主張そのものが間違っていると断言する。
「ローマ規程では、締約国の領域内で起きた犯罪や、締約国でなくとも管轄権を受け入れると表明した国で起きた犯罪は、ICCの捜査対象となります。パレスチナは締約国ですし、ウクライナも管轄権を認めていました。ですから、そこで起きた犯罪については、国籍を問わず捜査対象となる。これは規程制定時にアメリカも加わって協議したことで、当然分かっているはずです」
戦後の人類が長い年月をかけて築き上げてきた「法の支配」。その理念を体現するICCという制度が、今、危機に瀕している。
「何十年もかけて積み上げてきたものが、こんなにも簡単に崩されてしまうのかという危機感を持っています。こういう時代だからこそ、ICCがあらゆる圧力に屈せず、頑固に、地道に、公正に手続きを進めていく。それによって、法の支配が力の支配に勝ることを示し続けることが重要です。圧力とともに、私たちを支えてくれる強いエールも世界中から感じています。それが支えです」
時代の目撃者としての声を残したかった
本書の出版を決意した背景には、ICCが置かれた状況への強い危機感があった。
「第2次トランプ政権の成立が現実味を帯び、制裁の危険が増してきた中で、時代の目撃者としての声を残しておきたいと思いました。そして、ICCが世界にとってどれほど重要か、その存在がなぜ守られなければならないのかを、日本の多くの方に知っていただき、支持を得たいと思ったのです」

赤根さんを奮い立たせるのは、日本の人々が持つ遵法精神と、法の支配が当たり前のように根付いている社会への思いだ。
「その当たり前が、世界では当たり前ではない。この状況が続けば、最終的には日本の中の法の支配さえ崩れてしまうかもしれない。私にできる範囲で、日本の、そして世界のために力を尽くさねばならない。それが私の支えです」
眠れない夜もある、と率直な胸の内を明かす。戦後80年を迎え、戦後国際秩序は大きな曲がり角に立たされている。本書は、その現実から目をそらさず、ともに考えることを私たちに強く促す一冊だ。
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