「才能を持った人間なんて、実はたくさんいる。でも、天才は違う」――額賀澪さんデビュー10周年記念作品『天才望遠鏡』より「星の盤側」を一挙公開!
ジャンル : #エンタメ・ミステリ
額賀澪さんがデビュー10周年の節目に選んだテーマは「天才」。青春、スポーツ、音楽、お仕事……『天才望遠鏡』には、これまでの額賀作品のエッセンスがすべて詰まっています!
史上最年少でプロ入りした中学生棋士、タピオカミルクティーの味もマカロンの味も知らない、かつての「氷上の妖精」、気がつかぬままに抜群の歌声を持ち、オーディションを駆け上がる天才中学生……。
5つの天才とその姿をそばで“観測”していた者たちを描く連作短編集より、天才中学生棋士 vs. かつての天才中学生棋士の対局が胸を打つ「星の盤側」を一挙公開します。
玉松書房のエントランスにいた初老の警備員は、多々良の顔を見下ろして「いつもご苦労様です」と柔和に会釈した。受付で「ゴールドスピリット編集部と二時の約束です」と伝え、入館証を受け取る。受付係は「案内は不要ですよね」と言って多々良を送り出した。
エレベーターに乗り、五階で降りたら廊下を進む。しょっちゅう足を運ぶフロアだから、たとえ目をつぶっていても、いつも通り目的の編集部には辿り着ける。
でも、
「いつも通りじゃないんだなあ、これが」
編集部に足を運ぶのはいつも通りでも、肝心な部分が、全くいつも通りではないのだ。
廊下の壁にはスポーツ雑誌「ゴールドスピリット」のポスターや電車用の中吊り広告が、隙間なく掲示されている。その中には、多々良が撮った写真が表紙に使われた号もある。
プロ野球・日東ウイニングスの優勝記念号の表紙で仁王立ちするウイニングスの監督。春のセンバツ高校野球特集号の表紙は、優勝校のエースピッチャーの鋭い眼光。二年前の箱根駅伝特集の表紙では、伝統校のアンカーが拳を天に突き上げて優勝のゴールテープを切っている。
編集部のドアの横――やってきた人が必ず目にする一等地には、三年前のフィギュアスケート特集号のポスターが貼ってある。ケベック・シティー五輪の金メダリスト、萩尾レイナの四回転トーループ……これを撮ったときは胸が震えた。心臓が小刻みに跳ねて息ができなくなった。
ジャンプのときは崩れがちな表情がこの瞬間だけ精悍に整って、時間が止まって見えた。恐らくこのとき、自分と彼女の呼吸が、奇跡的にぴたりと一致したのだ。衣装の揺らめきまで完璧に計算され尽くした奇跡の一枚だった。
金メダル効果もあり、この号は発売即大増刷だった。以来三年、その発行部数を越えた号はない。カメラマンとして誇らしい気持ちもあるし、同時に「それはちょっとまずくはないか?」という思いもあった。
自分が撮った写真の前で少しだけ足を止めてから、多々良はドアをノックした。応答はないが、「どうもでーす」と勝手に入室する。
編集部はいつも通り雑然としていた。多々良がゴールドスピリットと仕事をするようになって三年になるが、編集部が綺麗に整理整頓されていたことは一度もない。校了日の前はエナジードリンクとカップラーメンの匂いが充満していることが多いが、今日は酸味の強いコーヒーの香りだった。来月号の進捗は芳しいようだ。
「あ、多々良さん、お疲れ様です」
ドアの近くのコピー機を覗き込んでいた編集者の青木に、まるで同僚のように挨拶される。「編集長、もういますんで」と彼が指さした会議室に、多々良は恐る恐る足を踏み入れた。
窓から外の景色を眺めていた影は、多々良の視線を摑み取るように勢いよく振り返った。
「多々良さん、ご足労いただいてすみません。編集長の小倉です」
この四月にゴールドスピリットの編集長に就任した小倉は、藍色のジャケットの裾を翻すようにして多々良に歩み寄り、名刺を渡してきた。
「カメラマンの多々良智司です」
自分の名刺を差し出し、小倉の名刺を受け取る。真新しい名刺には、間違いなく「ゴールドスピリット編集部 編集長 小倉香菜」と書いてあった。
小倉は背が高かった。靴のヒールを加味しても百七十センチといったところか。百六十センチちょうど、正確に測ると百五十九・五センチの多々良からすると、充分長身だ。肩幅が広く、手足ががっちりしていて、立ち振る舞いに風を切るような存在感がある。
「女の編集長は珍しい?」
小倉の声は女性にしてはハスキーな方で、少しだけ擦れていた。笑みを含んだ声は、多々良のつむじのあたりを掠めた。
「いえ、ファッション誌の仕事もたまにしますけど、あの界隈は女性編集長ばかりですから。でも、スポーツ雑誌の女性編集長は、あまりお目に掛からないかもしれないです」
「ゴルスピ史上初だから、女の編集長って」
少し、含みのある言い方だった。一ヶ月前、懇意にしていた前編集長の磯野が、異動の挨拶のために電話してきたことを思い出す。「次期編集長は女性だから」という言葉にも、小倉とは違う種類の含みがあった。
会議室のドアがノックされ、青木が「お茶どーぞ」とペットボトルの緑茶とほうじ茶を持ってきた。遠慮なくほうじ茶を選ぶと、小倉は「私は大丈夫」とテーブルの隅に置いてあったタンブラーを引き寄せて蓋を開ける。「最近、コーン茶に嵌まってて」という小倉の声と共に、甘いトウモロコシの香りが漂った。
「九月号の特集のことで、多々良さんにお願いがあるんです」
長机を挟んで椅子に腰掛けた多々良に、小倉が早速本題に入った。冷えたほうじ茶を一口飲んで、多々良は姿勢を正した。
「去年は欧州サッカー開幕特集でしたよね? 出張費出すからイングランドに行ってくれとかだったら、喜んでいきますけど」
「いいえ、行ってほしいのは千駄ヶ谷の東京・将棋会館」
「はい?」と目を見開いた多々良に、小倉は「将棋会館」と繰り返す。
「九月号は将棋特集で行こうと思ってるの」
「……ゴルスピって、僕はスポーツ雑誌だと思ってたんですけど、まさかリニューアルしてエンタメ雑誌にでもするつもりですか?」
自分の声に生えた棘に気づいて、多々良は慌ててお茶を飲んだ。喧嘩しなくてもいい場面で、自ら切り込んでいくこともない。だが、雑誌の廃刊や廃刊同然のリニューアルとは、こんな具合にさらりと実施されるものなのだ。
小倉はにこやかに笑ったまま、「いいえ」と首を横に振った。
「ゴルスピは従来通り、スポーツ雑誌としてやっていきます。要するに、将棋をスポーツとして特集したいの」
「それはまた、随分とチャレンジングな特集ですね」
「私の新編集長としての最初の目玉企画ってところです」
組織のリーダーが交代すると、必ず何か変化がある。「新しいリーダーになってこんなにいいことが起こった」という、短期的な成果を早急に積むために。その流れに巻き込まれ、多々良のようなフリーのカメラマンは仕事を得ることもあるし、失うこともある。
「編集長渾身の企画でご指名いただけるのは光栄ですが、僕、将棋は撮ったことはないですよ?」
「ええ、三年前に独立してから、ゴルスピを中心に、スポーツをメインに撮ってるって編集部の人間から聞いてる」
そう言って小倉は、背後にある棚――ずらりと並ぶゴールドスピリットのバックナンバーの中から、多々良の撮った萩尾レイナが表紙の号を取り出した。
「多々良さん、自腹でケベック・シティーまで行って、この萩尾レイナを撮って売り込みに来たんでしょ?」
「フリーになったばかりで、なり振り構ってられなかったんで」
三年前、二十七歳だった多々良の写真を、編集部は高く買ってくれた。ゴルスピからケベック・シティーに派遣されていたカメラマンもいたわけだが、その人の写真を押しのけ、多々良の写真が表紙に採用された。フリーになってからの仕事が順調なのは、間違いなく萩尾レイナとゴルスピのお陰だ。
「日本中が萩尾レイナを“氷上のかわいい妖精ちゃん”と思ってたのが、この一枚で確かに変わった。この子は、金メダルを渇望するアスリートだって。彼女のこの目、『金メダルは私のだ』って叫んでるもの」
多々良自身、あの一枚を撮るまで、萩尾レイナを妖精か何かかと思っていた。近寄れば苺の香りがするような、醜い欲望なんて欠片も持ち合わせていないような、「無垢で純粋なかわいい女の子」という理想像を、どれだけ彼女に押しつけていたかを思い知らされた。
「将棋特集号の表紙で、多々良さんにこの萩尾レイナを超えてほしいの。そして、将棋特集号で三年前のこの号の発行部数を超えたい」
「……残念ながら、将棋でそれが達成できるビジョンが僕には見えないんですが。それこそ、将棋雑誌とかで撮ってるカメラマンがやった方が、撮り所もわかってて確実ですよ」
「ゴルスピはスポーツ雑誌だって多々良さんも言ったじゃないですか。九月号は、将棋をスポーツとして見せたいんです。野球、サッカー、陸上、水泳、ラグビー、フィギュアスケート、競馬……ゴルスピが今までかっちょいい写真とキレのあるコピーと人情味のある文章で伝えてきた数々のスポーツと同じように、将棋を特集したい。棋士をアスリートとして見せたいんです」
熱の籠もった口振りだった。短距離走で、選手が一段、二段、三段とギアを上げて加速していく様が、多々良の脳裏を駆け抜けていく。彼女が企画会議で同じ演説をする姿も、他の編集部員がそれを啞然と聞いているのも。
「小倉さん、将棋がお好きなんですか?」
「祖父が好きでね。小さい頃に教え込まれたし、今も休日はネットで対局を観るのが趣味。あ、でも、好きだから将棋を特集しようと暴走してるわけじゃないですからね?」
スマホを取り出した小倉は、「多々良さん、明智昴ってご存じ?」とニュースサイトが表示された画面を見せてくる。
「なんか、名前を聞いたことがあるようなないような」
「十四歳の誕生日にプロ入りを決めて、藤井聡太の最年少棋士記録を更新した“天才中学生棋士”ですよ」
ニュースのトップでは、端正な目鼻立ちをした少年が笑顔を浮かべていた。アイドルグループにいてもおかしくないような、華やかな雰囲気の子だ。
明智昴という名のその少年は、今年の二月に奨励会三段リーグ戦で四段昇段を決め、四月一日付で四段――プロ棋士になったらしい。しかもプロ入りした日は、彼の十四歳の誕生日当日。藤井聡太の「十四歳二ヶ月でのプロ入り」という記録を、二ヶ月更新した。その快挙に世間は沸き立ち、彼に注目しているようだ。
「ね? すごくない?」
「すいません、まず将棋が四段からプロになるということを今知りました」
「噓、藤井聡太のときに散々マスコミに取り上げられたじゃない」
「あの頃は師匠のアシスタントになったばかりで、日本中飛び回ってたんで……それでも藤井聡太の名前は随分聞きましたけど」
ただ、記事の中に散見される「史上初」「偉業」といったワードから、この少年がすごいことをやってのけたことだけは、わかる。一応、わかる。
「そもそも、藤井聡太の最年少棋士記録だって、加藤一二三以来、六十二年ぶりの快挙だったんです。数十年破られることはないだろうと思ってたら、十年もたたず更新された」
「とりあえず、この明智昴って子がすごいってことはよくわかりました」
「プロになった明智昴は今後、六月から始まる順位戦に参加します。一回戦の対局相手は、彼と同じく中学生でプロ棋士になった座間隆嗣六段。天才中学生棋士と、かつて天才中学生棋士だった二人の対決ってわけです」
「あ、座間って人はちょっと覚えてるかも。中学のとき、そんなニュースを見ました」
ああ、そうだ。中学三年のときの担任が、毎朝その日の注目ニュースを話して聞かせる人だった。「君らと同い年の子がプロ棋士になったぞ」と目をキラキラさせていた。続いて聞こえたのは「だから君達も、何事も諦めないで頑張ろう」だった気がする。
中学生の自分がどんな顔でそれを聞いていたかは記憶にないが、今ならこう思う――一握りの天才を例に、凡人に不相応な夢を見せてやるなよ、と。
「天才中学生の華麗なるプロ初戦を、僕に格好よく撮ってこい、ということですね」
将棋は動きが少なく、写真映えもしないだろう。だが明智昴の容姿なら、将棋盤を眺めているだけで絵になる。雑誌の表紙として成立させられるはずだ。
「引き受けてもらえますか?」
「新編集長の信頼を勝ち取りたいですから、精一杯やらせていただきます」
「それはよかった。『女がスポーツ雑誌の編集長なんて』って言われたら、そこの窓から叩き落としてやろうと思ってたから」
小倉が指さしたのは、先ほどまで彼女が外を眺めていた窓だった。まさか、すでに何人か叩き落としたのだろうか。もしかしたら、前編集長の磯野だった可能性もある。
「嫌がるカメラマンもいるかもしれないですね。僕はそもそも師匠が女性カメラマンだったので、女性の下で働きたくない男の人のことがイマイチよくわかんないですけど」
「へえ、多々良さんの師匠、女性だったんですか。やっぱり、スポーツカメラマン?」
「いえ、スポーツは僕がもともと撮りたかったんです。芸大の写真学科に通ってたんですけど、そこの先生の紹介でアシスタントになったのが、たまたまその人で。今は結婚してパリでカメラマンやってます」
広告の撮影で行ったパリで出会った同業者と親しくなった師匠は、あれよあれよという間に結婚してしまったのだ。多々良がアシスタントになった時点で彼女は四十五歳だったから、てっきり結婚はしないものと思っていたのに。
「『お前をパリに連れて行くわけにはいかないから、これからは一人で頑張れ』って放っぽり出されて、このままじゃまずいと思って冬季五輪を撮りに行ったんです」
「何それ、面白い」
ずっと澄ましたように浅い笑みを浮かべていた小倉が、初めて大口を開けて笑った。思えば小倉はどことなく師匠と雰囲気が似ていて、なんだか話が合いそうだった。
「小倉さん、学生時代にスポーツやってましたよね?」
彼女の笑い声に引っ張られ、会議室に入ったときからずっと思っていたことを口に出す。
「え、なんでわかるの?」
「肩幅が結構あって、足も腕も筋肉質なのがわかるんで、剣道あたりの経験者かなあって」
「さすが、スポーツカメラマン」
でも、残念。ふふっと鼻を鳴らした小倉は、右手を静かに振りかぶって見せた。
「女子ソフトボール、高校時代に全国ベスト4です」
*
陸上のシーズン開幕を告げる織田記念が行われる広島は、生憎の雨だった。
望遠レンズをつけたカメラを銃のように構えたカメラマン達が、ある者は水溜まりに膝をつき、ある者は濡れた地面に寝転がって、同じ方向を睨みつけている。
背が低いのも意外と役に立つのは、カメラマンとカメラマンの間に体をねじ込んで撮影ができることだ。人混みで撮影するときは当たり負けすることもあるが、ちゃっかりいい位置をキープできるパターンもある。
「全然止まねえなあ、ちきしょう」
多々良の隣で地面に這いつくばっていたカメラマンが、笑い交じりにそうこぼす。陸上競技の撮影ではしょっちゅう居合わせる福永という中年の男だった。
「記録は期待できないかもですね」
自分に向けられた言葉ではなかったが、多々良は小声で答えた。
男子百メートル決勝が行われる午後三時半過ぎには、雨は止むだろう……なんて言われていたのに、天気予報は見事に外れた。スタジアムのトラックは水浸しで、多々良が着る雨合羽やカメラのレインカバーに落ちる雨音は、強く重たい。
雨の音しか聞こえなかった。スタジアム全体が息を潜め、ただトラックを見つめる。望遠レンズの中に、スターティングブロックに足をのせた選手が八人。スタートのピストルを待っている。
百メートルを駆け抜けてきた彼らを、ゴール側で待ち構えて撮る。それが多々良の仕事だ。
雨合羽のフードの端からこぼれた雨粒が、右目に入った。瞬きをして、水滴を目尻から逃がす。目元を拭うわずかな時間すら惜しくて、カメラから手が離せなかった。
――On your marks.
雨の向こうからそう聞こえて、多々良は深く息を吸い、止めた。直後、ピストルが鳴る。雨雲を押しのけるような乾いた音に、八人の選手が濡れた四肢を前後させて走り出す。
スタートの鋭い低姿勢から、徐々に上体を起こして加速し、多々良達に迫ってくる。カシャカシャカシャとシャッターが鳴る。その音が選手の表面から何かをそぎ落としていくみたいに、彼らはどんどん加速する。
およそ十秒の中に、その選手のこれまでの練習とこれからのキャリアが詰まっている。
一番にゴールしたのは、昨年の日本選手権で日本男子歴代最速の九秒九五を叩き出した選手だ。今日は生憎のコンディションのせいもあり、タイムは十秒一一だった。
同じ人間じゃあねえな、と思う。
客席に手を振る姿、日に焼けた肌、小さな雫が滴る髪。スプリンターの膨ら脛を伝う雨粒は、筋肉の流れに手を這わせるようにゆっくりゆっくり落ちていく。
同じ姿形をしているのに、到底、同じ生き物ではない。そういう人間を凡人と区別するために、「天才」という言葉がある。天から才を与えられたとしか、言いようがない。
スポーツタイマーの前で優勝の記念撮影をし、インタビューの模様も写真に収め、五時過ぎからの女子五千メートルのスタート時間まで屋内に引っ込むことにする。午前中の予選から撮りっぱなしだったせいで、昼食も食べそびれてしまった。
客席に続く通路の自販機コーナーでホットコーヒーを買っていると、先ほど隣で撮影していた福永が「あー、さぶい、さぶい」とこぼしながらやって来た。多々良と同じホットコーヒーを買うと、すぐには飲まず、アルミ缶を掌で包んで暖を取る。
「寒いっすよね、今日。もうすぐ五月だってのに」
「多々良ちゃんは若いからいいけど、雨に打たれながらの撮影はおじさんには応えるよ」
「若いって言っても三十ですし、最近は年下の撮影ばっかりしてますよ」
独立前は多くのアスリートが同世代、もしくは年上だった。ところがこの三年ほどで、シャッターを切りながら「若いなあ」と思うことが格段に増えた。
「そんなこと言ったら、俺がこの間撮影したアイドルなんて、一番若い子が十二歳だぞ、十二歳。娘より年下だよ」
かこん、と音を立てて缶コーヒーを開けた福永は、やや大袈裟に肩を竦めた。多々良も苦笑いしか返せなかった。
「福永さん、そういえば将棋好きでしたよね」
去年、箱根駅伝の予選会を撮影した帰り、カメラマン数人で立川の居酒屋で飲んだ。そのとき、福永は多々良の隣で初老のカメラマンと将棋の話で盛り上がっていた。
「十二歳よりはちょっと年上ですけど、俺、再来月に天才中学生棋士を撮るんですよ」
「おお、明智昴か、いいな! 藤井聡太の無敗の二十九連勝まで破ったら化け物だ」
「依頼されてからいろいろ調べたんですけど、本当にすごいみたいですね、彼」
まだデビュー戦も迎えていないというのに、先週の日曜には彼に密着したドキュメンタリー番組までやっていた。天才中学生の素顔はもちろん、世間はそんな息子を育てた両親の教育手腕にも注目している。数ヶ月後には、『天才の育て方~明智昴はこうして生まれた~』なんて子育て本が発売されるかもしれない。
将棋界に舞い降りた若き天才を持て囃し、明智昴という名前に金粉をまぶしていく。こうやって天才が天才として世間に受け入れられていく瞬間を、何度も見てきた。
「そりゃあそうだ。中学生でプロ棋士なんて、化け物級の天才だ。二十六歳までに四段に上がれなくて、そのまま奨励会を辞める人間が圧倒的に多いんだから」
「そもそも奨励会に二十六歳の年齢制限があること、今回初めて知りましたよ。どこの世界も、若いうちに芽が出ないとプロとして生きていけないのは一緒ですね」
例えば、今日の織田記念に出場している選手達は、中学・高校時代に頭角を現し、大学や実業団で活躍している選手ばかりだ。その多くは、三十代前半までに競技を引退する。人間の寿命がどれだけ延びようと、アスリートの寿命は変わらない。
「天才・明智少年のデビュー戦の相手って、誰なの?」
「かつての天才中学生棋士、座間隆嗣ですよ」
座間の名前に、福永は「へえ!」と目を丸くした。アルミ缶に口をつけていたから、声が少しだけ缶の中に反響する。
「懐かしい名前だ……いたねえ、天才中学生棋士の座間君って。あれって何年前よ」
「俺と同い年なんで、十五年くらい前ですね」
「うわ、おじさんが歳を取るわけだ。最近はてんで聞かないな、座間君の名前も」
コーヒーを飲み干した福永が、「ああ」と声を上げて多々良の顔を見下ろす。
「明智昴のデビュー戦ってことは、順位戦だろ? 座間君と彼が対局するってことは、座間君、C級2組にいるの? いつの間にそんなに落ちてきちゃったの」
多々良が撮影するのは名人戦の予選である順位戦だ。A級からC級2組までわかれていて、A級の優勝者が名人に挑戦できる。四段に上がったばかりの明智昴は、C級2組からのスタートだ。
順位戦の成績に応じて上位クラスに上がる棋士もいれば、落ちる棋士もいる。
座間隆嗣は、プロ入り直後こそ好成績を残していた。一期でC級1組に上がり、五段に昇段。二年目には竜王戦の決勝トーナメントにも出場した。
ところが、ここぞというところで勝ちきれず、二十歳を過ぎた頃から成績が息切れし始める。それを体現するように、成人した座間について書かれたニュース記事がほとんど見つからない。辛うじて、彼が三年前の順位戦でC級2組に降級したことはわかった。
「降級点でしたっけ? あれが二つついてるらしく、今度の順位戦で頑張らないと、フリークラスに落ちるらしいですよ。明智昴の対局相手ってことでインタビューに答えてましたけど、背水の陣だって本人が言ってたんで」
フリークラス棋士になると、順位戦に参加することができない。他の棋戦には参加できるが、フリークラスで十年間、規定の成績を収められないと引退となる。勝てないからフリークラスに落ちてしまったのに、他の棋戦で勝ち上がらないと強制的に引退。茨(いばら)の道だ。
「上には上がいるって仕事柄いつも見てるけど、なんだかなあって感じだな」
今の今まで座間の名前など忘れていただろうに。それでも福永は、溜め息をついた。
「将棋もスポーツも一緒ですね」
小倉が将棋を特集しようとするのは、納得はできた。しかし、絶望的に動きの少ない将棋を、スポーツ雑誌の表紙を飾るに相応しい絵として撮影できるかは、別問題だ。
「プレッシャーだなあ、おい」
堪らず呟くと、福永は「大丈夫、明智昴はイケメンだから。絵になるよ」と笑った。「明智昴でゴルスピの表紙を撮らないといけないんですよ」とは、さすがにまだ言えない。
缶コーヒーの蓋を開けたまま一口も飲んでいなかったことに気づいて、温くなった中身を慌てて口に含んだ。通りがかった同業者が、「雨、止みましたよ」と教えてくれた。どうやら、夕方の撮影はもう少し快適にできそうだ。
「多々良ちゃん、どこのホテル泊まってる? 終わったら飲みに行かない?」
「いいっすね、お好み焼き食べに行きましょうよ」
福永とお好み焼きを食べた翌日、せっかくだからと平和記念公園で写真を撮って、夕方に東京に戻った。その足で、ゴールドスピリット編集部のある玉松書房へ向かう。陸上競技を主に担当している編集者の青木に写真データと土産のもみじ饅頭を渡すと、「お茶でも一杯どう?」と打ち合わせブースに通された。
「織田記念、生憎の雨で九秒台は出ませんでしたねー」
お茶でもと言いつつ、青木はノートパソコンで多々良が撮ってきた写真をチェックし始めた。もみじ饅頭をお供に、写真を交えて大会の感想戦をすることになる。
「そういえば多々良さん、月刊アスレチックスでも仕事してますよね?」
カタカタとキーボードを鳴らしながら、青木がおもむろに聞いてくる。
「月刊アスレチックス」は飯田橋にある小さな出版社が作っている陸上競技専門の雑誌だ。 実は織田記念の撮影も依頼されたが、ゴルスピから先約が入っていたから断った。
「休刊するらしいですよ、八月売りの九月号で最後だって、今さっき部内の人間に聞いて」
雑誌の休刊は、廃刊と同義だ。休刊の後に復刊した雑誌なんてまず見かけない。
「いよいよ、ですか」
うっすら覚悟はできていたから、そこまで驚かなかった。月刊アスレチックスの売り上げが厳しいとは聞いていたし、最近は広告収入が減っているのが誌面から察せられた。
同時に、他人事のように思っている自分に気づいた。フリーのカメラマンとはいえ、自分もあの雑誌を構成する一部分だ。憤ったり焦ったりすべきなのに、どこかで納得もしてしまう。
「いやあ……ゴルスピも例に漏れず厳しいですけど、アスレチックスみたいなニッチな雑誌は特にきつかったんでしょうね」
「東京オリンピック以降、スポーツ雑誌はどこも苦労してますからね」
「本当ですよー。コロナのせいで、オリンピック特需もそんなになかったのにねえ」
雑誌そのものが斜陽であることは百も承知だが、スポーツ雑誌は出版社を問わず、東京オリンピックを境にどこも売り上げを落としている。
――オリンピックの名のもと、スポーツは社会を分断する斧にされちゃったのかもねえ。
当時、師匠が酔ってそんなことを言っていた。東京オリンピックの閉幕を告げるニュースがテレビから流れるのを、多々良と彼女は神戸の安居酒屋で見ていた。確か、ブライダル会社から依頼された撮影の後だった。
――多々良、あんた、それでもスポーツカメラマンになりたい?
師匠はそう言った。飲んでいたのは……六甲ビールだった気がする。
「僕はねえ、皮肉にも東京オリンピックがスポーツ嫌いを増やしたと思ってるんですよ」
青木の声に、あの日の安居酒屋の一角から、ゴルスピの編集部に引き戻される。青木は多々良が撮った雨の織田記念の写真を眺めていた。カチカチカチと、マウスが鳴る。
「オリンピックが悪かったというより、あの頃の新型コロナ対策を含めた、開催までのありとあらゆる出来事が最悪だった。あれじゃあまるで、スポーツは何を犠牲にしても優遇されるべきものだってことを、オリンピックが象徴してるみたいだった」
「スポーツがそんなに偉いのかよ、みたいな風潮、目に見えて大きくなりましたよね」
「多々良さん、僕ね、母校が野球の強豪校だったんですよ。野球部が予算も学業成績も優遇されて、素行の悪さにも目をつぶってもらえて、推薦でいい大学に入っていくのを、他の運動部や文化系の子達は『不公平じゃね?』って思うわけです。先生達は『野球部は特別だから、頑張ってるから』って相手にしない。『俺達も頑張ってるのに』と野球部に恨みを抱いて大人になった子が、その後の人生で野球を好きになるわけがない。それと同じだと思うんですよね」
いいたとえなのか、多々良には判断しかねた。ただ、新型コロナウイルスの流行によって、友人や家族を失った人、仕事を失った人、医療現場で大変な目に遭った人、映画や舞台の発表の場を奪われた人、学校生活や行事を奪われた人が、オリンピックを――ひいてはスポーツそのものを〈忌々しい〉と思うのは、当然のことだ。
あのオリンピックが終わってからも、スポーツは変わらず盛り上がっている。それでも、オリンピックが分断したものは、繫ぎ直されていないのかもしれない。犯罪者の身内を白い目で見るような、薄く冷たい視線が、いつだってスポーツには降り注いでいる。
コロナ禍が災害だったように、東京オリンピックも災害のようなものだったのだ。
「……それにしても青木さん、野球嫌いだったんですね。この前の野球の企画も関わってたのに」
「そりゃあ、仕事だもの。ゴルスピも休刊はまだないにしても、頑張らないとですから。将棋もいいですけど、僕はやっぱり陸上をもっとバンバン特集したいなあ」
言いながら、青木は「おっ」と声を上げた。男子百メートルのゴールシーンを捉えた一枚を指さし、「これで行きましょう!」と破顔する。
九秒九五のさらに先。日本人が誰も到達したことのない領域を見据えた目が、雨の向こうで白く光っている。
*
大事な撮影がある日は、朝食にカレーを食べることにしていた。アシスタント時代に撮影で会った野球選手が「大事な試合の日の朝はカレー、大事な試合じゃなくてもカレー」と言っていたのが妙に頭に残って、以来それが習慣になった。
織田記念の帰りに広島駅で買った「広島名産 かきカレー」のレトルトが、鍋の中でぐらぐらと揺れるのを眺めていたら、炊飯器のアラームが鳴った。
リビングのソファに腰掛け、テレビに大写しにされた明智昴を眺めながら、カレーを頰張る。
天才中学生棋士・明智昴のプロ初対局が今日の午前十時から行われることを、ワイドショーの司会者が朝に相応しい爽やかな笑顔で伝えていた。明智昴の小学校時代の担任や、明智家がよく行くイタリアンレストランの店主からの応援コメントまである。
『――さあ、この明智昴四段の対局相手の座間隆嗣六段ですが、なんとこの方も中学生でプロ棋士になられた方なんですねー』
申し訳程度に座間が紹介され、彼の写真とプロフィールが映し出される。静岡県出身、三十歳、十五歳でプロデビュー。情報はそれだけ。彼の二十代がどんな時間で、この順位戦がどれだけ大事なものであるかは、何一つ書かれていない。
座間がプロ棋士になったとき、きっとこの番組も彼を取り上げたに違いない。将棋界に天才が現れたと、座間のクラス担任や友人のコメントを放送しただろう――そこまで考えて、この番組が始まったのが六年前であることを思い出した。
大振りの牡蠣を口に詰め込みながら、多々良はテレビに映る座間の写真を見た。
色白の顔に真っ黒な短髪、電柱のようなひょろりとしたシルエットに、太いフレームの眼鏡。明智昴とは正反対の雰囲気だ。
座間がC級2組に降級した頃、多々良は捨て身でケベック・シティーにいた。
カメラを構えて氷上の萩尾レイナを追いかけたことを思い出す。日本中の期待を小さな体に背負って、多々良のレンズの中で四回転トーループを舞った少女のことを。
彼女はケベック・シティー五輪後に左膝を疲労骨折し、長期療養を経て今シーズンから競技に戻った。世間はすでに彼女の次に現れた天才を見つめている。
天才は、意外とすぐに現れる。誰かの才能が燃え尽きると、入れ替わるように別の天才が降り立つ。金メダルから三年、萩尾レイナにも「次シーズンで引退」と噂が流れていた。
空になったカレー皿をそのままに、多々良はリビングに置きっぱなしにしていた漫画を手に取った。初めて撮る競技の撮り所を探るために、その競技が題材になった漫画や小説を読むことにしている。試合やレースの映像を見るのもいいが、それだけではわからない競技の輪郭や温度感がわかるような気がした。
漫画や小説には、しょっちゅう天才が現れる。現実味がないように見えて、ときどき現実の方が軽々とフィクションを追い越し、殴りつける。明智昴はまさにそういう存在で、座間も、かつてそうだった。
今度テレビドラマになるという将棋漫画の一巻をパラパラ捲っているうちに、ワイドショーは次のコーナーに移った。明日のこの時間、どんな雰囲気で、明智と座間の対局を伝えるのか。
空になった皿を洗って、昨夜のうちに寝室のクローゼットの奥から引っ張り出しておいた黒のスーツに着替える。一番目立たない紺色のネクタイを締める。将棋連盟から渡された撮影時の注意事項には、「スーツ着用のこと」としか書いていなかったが、棋士の視線は下に集中することを考え、靴下も目立たない色合いのものを選んだ。
慣れないスーツを着て、機材が入ったボストンバッグを担いでマンションを出た。まだ梅雨入り云々のニュースは聞かないが、朝の風は温くべたついている。生憎スーツは夏用でなかったから、駅に着くまでに背中と脇腹にじっとり汗を搔いた。
将棋会館の最寄り駅は千駄ヶ谷だが、多々良の住む練馬からは地下鉄に乗って国立競技場駅から歩いた方が楽だから、そちらのルートを選んだ。
改札を抜けて地上に出ると、目の前に新国立競技場があった。東京オリンピック以降、撮影で何度も訪れた場所だ。完成から随分たつのに、ほのかな木の香りが外まで漂ってくる。
見覚えのある顔を見つけたのは、新国立を横目に将棋会館に向かって歩き出したときだった。
地下鉄の出口から、階段を上って出てきたひょろ長いシルエットの男がいた。フレームの太い、少し野暮ったいデザインの眼鏡をかけた男は、俯きがちに多々良の前を通過していく。
明智昴の対局相手、座間隆嗣だった。
生で顔を見たら、中学生の頃にテレビで見た彼の姿が鮮明に蘇った。将棋盤に向かった彼は、今と同じように物憂げな表情で駒に指を添わせた。駒が盤を打ち鳴らす音は炎が爆ぜるようで、座間は力強く、でも静かに将棋を指し続けた。
今思えば、あれが彼のプロとしてのデビュー戦だったのかもしれない。
声をかけるわけにもいかず、多々良は座間の後ろを数メートル空けてついて行った。彼はしっかりとした足取りで住宅街の狭い道を抜け、将棋会館へ向かう。
途中、アブなのか蜂なのか、虫が彼の前を横切った。ぶーんという音は多々良の耳にまで届いたが、座間は立ち止まることも、手で払うこともしなかった。それだけで、座間は今、こちら側の世界にいないとわかる。このべたつく気温と温い風さえ、感じていないかもしれない。
なんてことない住宅街の先に将棋会館はあった。樺色と言えばいいのか、赤みを帯びた茶色いタイル貼りの建物の前には、テレビカメラと女性レポーターの姿がある。昼か夕方の番組で、明智昴のデビュー戦について伝えるのだろう。
座間はそれにすら気づかなかった。歩調すら、乱さない。カメラマンが座間に気づいて、レポーターに無言で合図した。
「ああっ、明智四段の対局相手、座間六段が将棋会館に到着されました。少し緊張しているように見受けられます。明智四段との対局を前に、どのような心境なのでしょうか――」
テレビカメラが座間に向く。多々良は歩幅を大きくし、座間の前に回り込んだ。座間が将棋会館の正門を潜る瞬間に、彼とカメラの間に上手いこと自分を挟み込んでやる。背が低いとはいえ、機材の入った大きなバッグを抱えたスーツ姿の男は、さぞかし邪魔だろう。
座間を中学生のときに見たからとか、同い年だからとか、そんな問題ではない。戦いを前にした人間の神聖な集中の世界を乱す行為が許せなくて、全力で抗ってやりたいだけだ。
幸い、レポーター達は座間を追いかけては来なかった。むしろ本日の主役である明智の到着をなんとか映像に収めたいのだろう。
将棋会館に入ると、エントランスは独特の匂いがした。ほのかに甘い木の香りに、畳のい草の匂いが混じっている。冷たい匂い。だが、これから温まっていくのがよくわかる匂い。
不思議と、先ほど感じた新国立競技場の匂いと似ている。
将棋連盟の人間だろうか、エントランスに入ってすぐ、座間は誰かと話していた。「今日はメディアの取材がすごいよ」と苦笑いする男性に、座間が「あはは」と笑う。目の色が全くもってさっきと変わっていない。
「さすが、明智君ですね」
座間がそう言ったのがはっきり聞こえた。あまり張りのない擦れた声だった。
メディア向けの受付には、撮影機材を抱えた人間が殺到していた。みんな同じような格好なのに、一目で将棋雑誌の人間でないとわかる。多々良と同様、明智昴のために慣れない将棋会館へ派遣されたのだろう。
受付を終えた直後、スマホに着信が入っていることに気づいた。スマホの画面に表示された080から始まる番号には、見覚えがない。
何度もしつこくコールされるので、エントランスの隅に移動し、通話ボタンを押す。
『あ、もしもし?』という声を聞いてすぐ、相手が誰だかわかった。
『多々良さんのスマホですよね? 無事受付できましたか?』
まるでこちらを見ていたかのように、小倉が尋ねてくる。
「ええ、無事終わりました。予想はしてましたけど、かなりのカメラの数ですね」
『今朝のワイドショーも明智昴のデビュー戦を特集してましたから。この調子だと、藤井聡太のときみたいに、昼ご飯に鰻を注文したとかフルーツを食べたとか、そんなことまで話題になるでしょうね』
「それで、編集長直々に何のご用ですか? どうしてもほしい画角があるなら早めに言ってください。極力狙いますから」
小倉は笑い交じりに『いえ、違うんです』と言い放った。
『対局中の写真がイマイチだったら、インタビューの日に将棋を指す振りをしてもらって、それを表紙にする手もあるので、気軽に撮影してきてください、と伝えようと思って』
眉間の奥に小倉の声がスンと差し込んで、短い鈍痛に変わった。東京オリンピック閉幕時に師匠から『あんた、それでもスポーツカメラマンになりたい?』と挑発されたことを思い出す。
挑発……そうだ、あれは確かに挑発だった。そして小倉の言葉も、挑発なのだ。
「小倉さん、ゴルスピの前はどこの部署にいたか知りませんけど、カメラマンをその気にさせるのが上手いですね」
『え、そう受け取った? 私は本当に純粋に、肩の力を抜いた方がいい写真が撮れると思って』
一ミリもそう思っていない顔を、電話の向こうで小倉はしているだろう。一度しか会っていない小倉の顔が、ありありと浮かんで消えない。
これは、意地でも撮らなければならない。スポーツ雑誌の表紙を飾る一枚。恐らくスポーツ雑誌の表紙として初めて、将棋をスポーツとして写した写真を。
オリンピックをきっかけにスポーツ嫌いが増えたと、青木は言った。多々良もそう思う。小倉がゴルスピで将棋を特集しようとするのも、それに近い問題意識がある気がした。
あの日、お前はスポーツカメラマンになりたいのかと師匠に挑発された日、多々良は彼女にこう答えた。
――その分断されちゃった社会を、スポーツがもう一度繫げられるように、撮りたいんですよ。
今更ながら青臭さと幼さに虫酸が走って、身震いがした。そうだ、俺も結構酔っていたのだ。六甲ビールが美味かったのがいけないのだ。
「……さあ、撮るか」
撮影の場所取りをするために、カメラマン達が動き始めた。荷物を担いで、多々良も対局室へ向かう。通路を歩きながら、両目をぎゅっと閉じた。カッと見開き、また閉じる。何度もそれを繰り返し、自分の眼球に語りかける。
カメラは、カメラマンの目だ。カメラマンが美しいと思ったものは美しく写り、尊いと思ったものは尊く写る。
さあ、いいか。撮るぞ。
対局室に入り、場所取り争いに飛び込んだ。カメラマンとカメラマンの間に体をねじ込み、明智の顔が狙える場所を確保する。
九時半を回り、メディアの姿が増えていく。スチール、動画問わず、次々とカメラマンが現れた。徐々に身動きが取りづらくなっていく。できるだけ身軽になりたいからカメラ一つで入室したのだが、カメラを何台も肩から提げた者もいれば、三脚を立てる者もいる。
多々良達カメラマンは、対局中ずっと撮影が許されているわけではない。序盤は初手が指されるまでしかシャッターを切れず、昼休憩明けは順位戦を主催する新聞社と将棋連盟のカメラマンしか入れない。それ以外の撮影チャンスは終局後だ。
ならば、山場は序盤も序盤。初手が決まるまでだ。誰もが、明智昴が座る下座側が撮りやすい位置を確保していた。
対局室の中央には、将棋盤と、座布団が二つ。無人の将棋盤を多々良は写真に収めた。モニターで明るさを確認し、シャッタースピードと絞りの具合を変え、もう何枚か撮る。
九時四十分ちょうどに、座間が現れた。一礼して入室すると、その様子を写真に収めるカメラマン達を一瞥し、上座に着く。くたびれたリュックから、ペットボトルのほうじ茶とエナジードリンクの缶を取り出し、傍らのお盆に置いた。
座間の表情は、先ほどと一緒だった。照明のスイッチを切るように、多々良達を意識の外に追い出す。伏し目がちに盤上を見つめたまま、ぴくりとも動かない。スーツを着込んだ横顔からは、頰がぴりりと痛くなるような緊張感が放たれていた。
座間は今、自分のデビュー戦のことを思い出しているのかもしれない。そのときもこんなふうにメディアが詰めかけたのだろうか。胸の内で「何年たっても変わらないな」と笑っているのか、それとも「さすが、明智君ですね」と肩を落としているのか。
明智昴が現れたのは三分後だった。
「おはようございますっ」
弾んだ声で挨拶し、にこやかに一礼して入室した瞬間、再びシャッターの音が響く。学校の制服なのだろうか、濃紺のブレザーはむせ返るような爽やかな色合いだった。
シャッター音は座間のときより明らかに数が多く、長かった。多々良も、明智の写真は座間より多く撮った。少しずつ、カメラマン達の心拍数が上がっていくのがわかる。
明智は随分リラックスしているようだった。表情も穏やかで、笑みを浮かべたまま座間に会釈する。座間は木の枝が折れるようなぎこちないお辞儀をした。
二人はしばらく無言で盤上を見つめていたが、どちらからともなく顔を上げたかと思うと、互いに一礼し、上座の座間が駒箱を開ける。
盤上に駒が広がる。多々良の覗くファインダーの中で、王の駒が音を立てて転がった。
王に、座間の指が伸びる。
節の目立つ、細長く色白な指だった。その指が、王を自陣に置く。カン、という鋭い音。炎が爆ぜるような、高らかで、鮮やかな音。
気がついたらシャッターを切っていた。
駒に念を込めるような力強い動きに、レンズが吸い寄せられる。座間の手首、腕、肘、肩と舐めるように移動し、彼の顔を捉える。
座間の目には、すり切れそうな緊張感が宿っていた。眼鏡のレンズに対局室の照明が反射し、青く光る。見開かれた白目がほのかに青く染まり、炎が燃え上がるみたいに揺れる。
多々良と同じように、明智もその炎を見ていた。下座の明智が玉を取って自陣に並べる。一つ、また一つ、座間と明智は交互に駒を並べていく。
座間の手の動きを目で追いながら、明智はしきりに右手の指先を左手で押さえていた。彼の右手中指が微かに震えるのを、多々良は見逃さなかった。
緊張か、畏縮か、武者震いか。明智本人も区別できていない顔をしていた。
右手を押さえながら、彼は笑っていた。メディアの前で見せるアイドルのような華やかな笑顔ではなく、自分の中から湧き上がるものを必死に押さえ込もうとする笑みだった。
それでも、見開かれた両目は、座間の指先を放さない。
まだ対局は始まっていないのに、ただ駒を並べているだけなのに、指が勝手にシャッターボタンを押す。カシャカシャカシャという乾いた音が、少し前に聞いた虫の羽音を思い出させた。どうかこの音が、彼らの高ぶりに水を差しませんようにと祈った。
駒を並べ終えた二人は、無言のまま対局開始時刻を待った。
その間も、シャッターの音は鳴り止まない。対局開始の十時はあっという間に来た。
「――それでは時間になりましたので、明智先生の先手番でお願いします」
記録係の合図に、二人が同時に頭を下げ、「よろしくお願いします」と言葉を交わす。対局室にシャッターを切る音が小刻みに響く。木々のざわめきのようだった。
目を伏せていた明智は、短い深呼吸をして、唇を引き結んだ。つかの間、微笑みが消える。瞬きを三度すると、またすぐに口元をほころばせる。
明智の手が盤上に伸びる。もう右手の中指は震えていなかった。
軽やかな動きだ。綺麗な爪をした指先は飛車の前にあった歩を取り、すっ……と音もなく動かす。それだけの動きを捉えるために、すべてのカメラマンがシャッターを切った。
初手を終え、彼はわずかに白い歯を覗かせて微笑んだ。澄んだ瞳だけが笑っていない。眼球が煮えたぎり、血走ってさえ見える。天才が天才として、選ばれし者達がしのぎを削る世界に飛び込んだ瞬間の顔だった。
こんな表情を、多々良は何度も撮ってきた。今も活躍する選手もいれば、早くに姿を消した選手もいる。才能の炎が燃え続けられる時間は、決して平等ではない。何年も燃え続けられる天才もいれば、一瞬だけ強く輝いて、二度と光らない天才もいる。
明智昴はどちらだろう。そんなことを思いながらシャッターボタンを押した。カメラマン達が「一仕事終わったな」という顔をする中、多々良は体の向きを変える。隣のカメラマンの懐に入り込むような体勢になったが、体格差があるから邪魔にはなっていないはずだ。仮に邪魔だったとしたら、後で苦情も聞くし、きちんと謝罪しよう。
どうしても、座間を撮っておきたかった。
写真を撮る行為をスポーツにたとえるなら、陸上の跳躍競技に似ている。跳び越える対象を睨みつけ、体の節々に「準備はいいか」と問いかけ、助走し、踏み切って、跳ぶ。
撮影時間が何時間あろうと、「ここだ」という瞬間は短い。走高跳や棒高跳の選手がバーを越える一瞬、走幅跳の選手が砂上を跳ぶ一瞬――本当に、それくらいの時間だ。
今日の撮影の「ここだ」がどこかと聞かれたら、間違いなくここだった。
座間は、明智の初手をじっと見ていた。姿勢よく、川の流れでも眺めるような顔で。
そんな彼を撮った。座間と呼吸を合わせ、三枚。喉の奥が痙攣して、声が出そうになる。
レンズを通して、座間の体をひたひたに満たした感情が流れ込んでくる。多々良はそれを摑むことができない。圧倒され、呆然として、気がついたら何も残っていない。激流は座間の中に帰っていってしまう。
自分には手の届かない場所で、巨大な炎が燃え上がっている。それを写真に収めるのが自分の使命だ。
この一枚も、きっと、そういう一枚になる。
かつて光り輝いていた星が色褪せ、熱を失い、消えていく過程の一幕を切り取っているだけかもしれない。座間はこの順位戦で再び降級点がつき、フリークラスへの降級が決まり、それをきっかけに引退するかもしれない。落ちていく星が最後に燃え上がったのが、今かもしれない。
それでも、同じ人間じゃあねえな、と思う。
どれだけ色褪せてしまっても、それでも、座間はレンズの向こうで燃え上がっている。
――さすが、明智君ですね。
将棋会館に集まったメディアの姿を横目に、座間はそう言った。かつて自分を天才と崇め奉ったメディアが、明智に群がる様を見つめながら。
明智を目障りに思っているかもしれない。妬ましいかもしれない。座間の経歴を知れば知るほど、見る側は勝手な物語を作り、座間の胸の内を勝手に想像する。
けれど、そんなことはファインダーの中ではどうだってよかった。
本当の天才は、戦いの場で丸裸になるのだ。かつて天才中学生だったとか、今、天才中学生だとか。そんなことは何一つ関係なく、ただ、今と今がぶつかり合う。
その熱は、見る側がどれだけの怒りや不幸や理不尽を背負い込んでいても、一瞬だけ、それを忘れさせる力を持っている。そうであってほしいと思う。
明智の初手の後、カメラマン達は一斉にカメラを置いた。
多々良は、カメラを構えたままでいた。
顎に手をやり、座間はしばらく動かなかった。やがて、重力に抗うように、ゆっくりゆっくり右手を伸ばし、明智と同じく飛車の一つ前の歩を取る。
パチンと駒が鋭い音を立てる。鋭い火花が散ったように見えた。シャッターは押さなかったが、多々良はそれをファインダー越しに見ていた。
スポーツだなあ、と堪らず微笑んだ。
*
小倉から電話が来たのは、明智昴がプロ初対局で勝利を収めたニュースがテレビで華々しく取り上げられた三日後だった。新宿の百貨店で買ったご当地レトルトカレーを、キッチンで戦利品のように広げているときだった。
『この前の撮影、ありがとうございました。明智昴の写真、すごくよかったです』
勢いで買ってしまった真っ青なルーの「オホーツク流氷カリー」を眺めながら、「大袈裟な」と多々良は肩を揺らす。
「最初はどうなるかと思いましたが、いい写真が撮れてよかったですよ」
『特に明智昴が初手を指した直後の、こう、勝ちを見据えて微笑んでる感じの写真。あれを表紙にして、中の見開きはインタビューのポートレートと、対局の写真で作ろうと思うの』
対局の写真は、多々良がピックアップをした後、編集部にデータで送ってある。蓋を開けてみたら明智の写真の方が多かったが、座間の写真もかなりあった。
「はじいた写真もかなりあるんで、必要なアングルがあったら言ってください。探してみます」
キッチンからパソコンの前に移動し、編集部に送った写真のフォルダを開く。
デスクトップパソコンの大きな画面に、大量の写真が並ぶ。真っ先に目が行くのは、明智の初手を見つめる座間の写真だった。
『せっかくなので、明智昴のインタビューの撮影も、多々良さんにお願いできますか?』
「編集長直々の依頼とあっては、断れないですね」
小倉は日程の候補を挙げた。幸い空いていたから、明智側の都合に合わせることにする。
スケジュール帳に日程を書き留めているのだろうか。しばらく無言が続いたかと思うと、小倉はおもむろに『そういえば』と微笑んだ。顔は見られないが、間違いなく微笑んだ。
『明智昴の初手を見つめる座間六段の写真、とてもよかったです』
さすが、女子ソフト全国ベスト4経験者だ。
「そう思うでしょう?」
『ええ、彼が特集のメインじゃないのが残念』
「こればかりは仕方がないです。中面で上手く使えるようなら、使ってください」
アスリートとしての肉体的なピークと精神的なピークが、ここぞという場面で一致するとは限らない。一致しないままピークを終えてしまう人間もいる。
運よく――それこそ神に愛された幸運な者だけが、ここぞという大舞台で最高のパフォーマンスを発揮し、歴史に名を残す。最高の時間が、一度しか、一瞬しか訪れないことだって、ある。萩尾レイナの四回転トーループが、脳裏を駆け抜けていく。
座間は天才だった。だが、彼の才能が光り輝く時間は、中学時代の一時しかなかったのかもしれない。
それでも彼が天才であったことと、三十歳になった彼がすり切れそうな瞳で天才中学生棋士と対峙したことは事実で、それを写真に残せたことは、勝手ながら誇らしいと思う。プロ棋士・明智昴の初手を撮ったように、萩尾レイナの四回転トーループを撮ったように、数多のアスリートの才能が燃え上がる瞬間を、この手で撮ってきたように。
パソコンの画面の中で、座間の瞳は青みを帯びた光を放っていた。
もし、彼が「かつての天才中学生棋士」として今も活躍していたら、今回の特集は明智昴と座間隆嗣が並び立つ形になっただろう。この写真も大きく使われ、座間のインタビューも掲載されたに違いない。ポートレートを撮影するために多々良は再び座間と会い、「僕、座間六段と同い年なんで、プロデビューのときのことは覚えてますよ」と伝えたかもしれない。
座間はどう答えるのだろう。考えても仕方がない。でも考えずにはいられない。
ゴルスピの将棋特集号が売れに売れ、第二弾が作られる頃、「かつての天才中学生棋士」として劇的な復活をした座間の写真を撮れたらいい。
そんなふうに願って叶わなかったことが、スポーツを撮るようになって何度もあった。だから、願わずにはいられない。
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