
しのびよる「グレーゾーンの戦い」
尖閣諸島をめぐって日中間で危機が起こる可能性は、安全保障関係者の間では「いつ起こってもおかしくない」というレベルまで高まっている。しかし同時に、日本では2025年の夏の参議院議員選挙の最中に、ロシアによる介入がおこなわれたというショッキングなニュースが報じられた。一体、何が起こっているのだろうか。
それは、我々はすでに危機の中にあるということだ。専門用語で「グレーゾーンの戦い」などと呼ばれる事態はもう始まっているのだ。
あなたがソーシャルメディア(SNS)で目にしている情報は、じつはあなたの「認知」を揺さぶるために中国やロシアが仕掛けた「ディスインフォメーション(偽情報)」や「陰謀論」なのかもしれない……。本書で明かされるのは、主に民主国家に対して平時からおこなわれている「影響力工作」(influence operation)や「認知戦」(cognitive warfare)、「ソフト戦」(soft war)と呼ばれているものの実態である。
現在、私たちはスマートフォンに1日4時間以上を費やしていると言われているが、このような状況のなかで、戦争のかたちもまた大きく変わりつつある。人々の脳の認知領域が、陸、海、空、宇宙、サイバー空間に続く「第6の戦場」と捉えられ、各国が研究を進めているのだ。ロシアや中国を中心とした権威主義国家による、日本をはじめとする西側諸国への工作は、ハッキングのようなサイバー・ネットワークを通じたものだけではなく、我々が普段から触れているSNSを通じた宣伝戦のような形でもおこなわれている。
認知戦とは、相手の認知領域、つまり思考や感情などの心理的な部分を揺さぶって行動を情報操作によって変化させようとする戦いの形のことである。
本書はその事例をいくつも紹介しているが、たとえば、中国は世界に向けて福島第一原子力発電所の処理水についてディスインフォメーションを発信したり、日本国内に沖縄で分断工作を仕掛けたりしている。また、ロシアはアフリカで次々と政権を転覆させ、さらにその能力を他の地域でも発揮しようとしているのだという。
認知戦については、すでに日本でも質の高い文献が出ている。ピーター・ポメランツェフの『嘘と拡散の世紀 「われわれ」と「彼ら」の情報戦争』や、P・W・シンガーとエマーソン・T・ブルッキングによる『「いいね!」戦争 兵器化するソーシャルメディア』、トマス・リッドの『アクティブ・メジャーズ 情報戦争の百年秘史』などの訳書、そして日本の研究者たちによる『SNS時代の戦略兵器 陰謀論 民主主義をむしばむ認知戦の脅威』(長迫智子、小谷賢、大澤淳著)などが代表例である。
しかし本書は、これらの著作のような「研究者による専門書」ではない。現在、認知戦へのカウンターに関わっている人物が、徹底して実務側に立ち、世界中の政府や企業に対する攻撃者側の手法を暴き、それらに対して具体的な防衛を呼びかけ、きわめて現場に密着した、実務的な内容に特化したマニュアルなのだ。
諜報部員として得たノウハウとリアリズム
本書はイタイ・ヨナト(Itai Yonat)氏に、SNSを中心におこなわれている「サイフルエンス(cyfluence、敵対的情報作戦)」(サイバー空間における情報操作や影響力工作)の実態について、訳者である奥山がインタビューしてその内容をまとめたものだ。
まずはイタイ・ヨナト氏の経歴について説明しておこう。ヨナト氏は1968年にイスラエルで生まれ、18歳で士官候補生としてイスラエル国防軍にて義務兵役を開始し、名門国立大学であるイスラエル工科大学(テクニオン)で学んだ。1990年に工学の第一学位(学士号)を取得後、イスラエル国防軍の情報士官として、心理戦や経済戦における先駆的な戦術開発に関わった。また、「経済戦」に興味を持ち、以来、イスラエルに敵対する国の経済分析を通じた戦略立案に関与している。
義務兵役を終え、1994年に退役した後、家業の建設会社に入社。2000年に軍部からの召集で、特殊作戦チームとイスラエル首相府でソフト戦などに4年間関わる。その後、医療系スタートアップのCEO(最高経営責任者)を務めたが、2006年に第二次レバノン戦争が始まると再び入隊し、諜報機関であるモサドに加わりソフト戦に従事した。そして、経済戦チームの設立に携わり、法律戦、心理戦、経済戦、サイバー戦争を統合した複合的な作戦を指揮。2008年に敵の諜報機関に自分の身元が暴露される事件が発生したが活動を続け、2011年に退役している。
退役後は、オープンソース・インテリジェンス(OSINT:Open Source Intelligenceの略称。一般に公開されている情報源からアクセス可能なデータを収集・分析し、活用する手法)を提供する民間の諜報サービス企業、インターセプト9500社を創業。アタッカー(攻撃側)とディフェンダー(防御側)両方の豊富な実務経験を基に、影響力工作への対抗策を、国や企業にアドバイスするだけでなく、戦略・戦術レベルの情報分析や教育もおこなっている。また、ヨナト氏は本書の編集作業中、ガザ地区で2023年10月7日から拘束されているイスラエル人の人質を救出するため、志願兵としてガザ地区での戦いに参加している。
現在、世界中で認知戦によって社会の安全が脅かされる事態が起こっている。SNS上での日本政治に関する言説だけではなく、皇室関連の話題に対するバッシングは日本に仕掛けられている認知戦のひとつだと私は考えている。
日本に対して悪意を持った外国は、なぜSNSを通じた工作をおこなっているのか。彼らの手のなかで踊らされる「役に立つ馬鹿」にならないためにも、ぜひヨナト氏の実務経験がいかんなく発揮された本書を読んでいただきたい。
「序 日本は認知戦に備えよ」より
-
『新・常識の世界地図』21世紀研究会・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募締切 2025/08/28 00:00 まで 賞品 『新・常識の世界地図』21世紀研究会・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。