第32回松本清張賞受賞作、住田祐さんの『白鷺立つ』が2025年9月10日に発売となります。

 本作は江戸後期の比叡山を舞台にした、異形の本格歴史小説。恃照と戒閻という仏僧の師弟が、「失敗すれば死」といわれる過酷な修行〈千日回峰行〉に挑む姿を劇的に描き出す、強烈なデビュー作です。

 二人はなぜ〈千日回峰行〉に挑むのか。そこには彼らが抱える“やんごとなき秘密”が関係していて――。冒頭30ページ分をためし読みでお届けします。


 冬の叡山(えいざん)は水墨画を思わせる。

 そのような叡山も、朔月(さくげつ)の未明は墨に染まり、山内の木々や堂宇(どうう)のすべては寒風に(おど)されているかのように縮こまり、黙りこくっている。

 それら堂宇の一つ、東塔無動寺谷(とうどうむどうじだに)明王堂(みようおうどう)は、南光坊(なんこうぼう)天海(てんかい)建立(こんりゆう)と伝わる六間半(約十二メートル)四方の古堂である。

 明王堂内陣の護摩壇(ごまだん)に座す僧の正面には、九日間相対してきた不動明王がある。僧と明王像との間合いは変わらぬはずであるが、あたかもそれが夜を日に継いで縮まっていき、もはや僧の眼前にその忿怒(ふんぬ)の形相を突き付けているようであった。

 堂内には白檀(びやくだん)の香煙が漂い、僧の鼻腔を(いぶ)してやまぬ。僧は己の衣擦れが耳朶(じだ)に直に触れるが如く感ぜられた。僧の唾は汚泥の如く舌下に沈淪(ちんりん)し、僧の瞳孔の開ききった目には蝋燭の細い火がゆらゆらと映じている。

 恃照(じしよう)は念珠を繰る手を止めた。

 ここまで来た――。

 歓喜ではない。安堵でもない。ここまで来た、という音のみが恃照の心中へ繰り返された。

 恃照は九日間、断食、断水、不眠、不臥(ふが)を貫き、日に三度の勤行(ごんぎよう)のほかは、十万遍の不動真言をひたすらに唱え続けてきた。

 北嶺千日回峰行(ほくれいせんにちかいほうぎよう)の明王堂参籠(さんろう)――通称堂入りは、同行において最も過酷とされている荒行である。堂入りの前に行者を囲んで催される儀式は生き葬式とさえ呼ばれるが、これは行者の死を想定していることを明確に示している。

 堂入りのあとも千日回峰行は続く。しかしその厳しさから言えば、堂入りは同行の(とうげ)にあたり、恃照はまさにその峠を越えんとしているのであった。

 堂入りを終えれば当行満(とうぎようまん)となり、行者は阿闍梨(あじやり)と称されることになる。

 平安朝前期にこの明王堂を開基した相應和尚(そうおうかしよう)以降およそ千年の歴史を持つ同行の、記録上二十人目の当行満阿闍梨、さらに堂入り後に同行を満行し大行満大阿闍梨(だいぎようまんだいあじやり)としてその名を刻まんとするにあたり、恃照はその長く険しい回峰を都合五年間かけ、繰り返してきた。

 このあと二年を費やし、およそ三百日間の回峰が待ってはいるものの、この堂入りが成就するか(いな)かが、同行を満ずるか否かを左右すると言っても過言ではない。

 三年前の寛政五(一七九三)年に正教坊(しようきようぼう)聖諦(せいたい)が同行を満行、つまり大行満大阿闍梨となったとき、叡山には三名の僧が次なる大阿闍梨にならんと千日回峰行に挑んでいた。

 叡山はこの千日回峰行を絶やさぬよう、百日回峰行を満行した者からこれぞと見込んだ僧を選び、同行に当たらせている。ただ、あくまで僧自身の申し出があることが前提である。申し出を通すか否かを、先達の大阿闍梨らを含む谷の住持らが判定する。

 果たして、恃照の発願(ほつがん)は叶った。以来、恃照は命を賭して同行に励んできたのであった。

 というのも、この北嶺千日回峰行は失敗が許されぬ。行者は死出紐(しでひも)と短剣を帯び、毎夜七里半の回峰に出る。叡山の山谷を巡る途中でそれ以上歩を進められぬようになった場合、その紐で首を(くく)る、もしくは短剣で自害する覚悟で行に挑まねばならぬのである。蓮華笠の紐の付け根に結わえ付けられている六文銭は、三途の川の船賃というわけである。

 恃照は三名の中で最も早く行に入った。順調にことが運べば、恃照、そしてその後の二名が三年続けて大阿闍梨となることになる。道を作ると言うとおこがましい気もしたが、恃照はさまざまな意味でこの行を満ぜねばならぬ重圧を背負っているのである。

 人は死を目前にしたとき、その脳裏に走馬灯が映るという。しかし今の恃照には映らなかった。肉体はとうに限界を超えていた。芬々(ふんぷん)たる異臭が己からわき立つのを感じる。恃照の師僧であり、また大行満大阿闍梨でもある憲雄(けんゆう)は、それを屍臭(ししゆう)と呼んだ。

 恃照は細く長く息を吐く。口からの屍臭を己で嗅がぬよう少し待って、堂内に充満する白檀の香りだけを吸い込もうとした。

 出堂するのだ――。

 恃照の心中に、ついに新たな言葉が紡ぎ出された。

 数本の蝋燭のみが照らす暗がりの中、恃照の背に侍る二人の小僧は何一つ口を利かぬ。ただただ、今まさに阿闍梨にならんとする一人の僧が立ち上がるのを待っている。恃照は鼻から息を抜いた。

 恃照は自身の右肩越しに、背に侍る小僧を見た。蝋燭の光を弱々しく受けたその頭頂が、無言で恃照を(いたわ)っている。左に侍るも同様であった。眠りそうになる己を何度も起こしてくれた小僧どもである。阿闍梨にならんとする孤僧を代わる代わる、懸命に鼓舞してきた。

 九日振りに、恃照に柔らかな感情が湧いてきた。その小僧らの思いをも汲み、恃照はついに出堂を決心した。

 五色の幔幕(まんまく)が巡らされた明王堂の戸が開け放たれると、堂内に叡山の冽々(れつれつ)たる寒気が遠慮なく侵入してきた。それに遅れ、数名の高僧と幾人かの信者らが堂内へ足を踏み入れた。

「よう(こら)えたの」

 恃照の耳元に後ろから(ささや)く者があった。声の主が誰だか分かり、恃照は振り返らず、わずかに会釈するにとどめた。延暦寺執行(しぎよう)を務める高僧であった。入堂の折、先達の大阿闍梨はこのようなことに難渋した、このようなことに留意せよなどと恃照に助言した、叡山の大幹部である。

 だが、彼の話は恃照にさして届かなかった。そのような話は当の大阿闍梨たる師憲雄に直接聞いていたうえに、自身で文献も渉猟して知っていた。そして何より、その高僧は大阿闍梨ではなかった。

 その執行が、恃照の堂下がりを告げる証明文を、まるで自らがやりおおせたかの如き大音声(だいおんじよう)で読み上げきった。

(ほお)の湯、朴の湯」

 恃照の先達たる憲雄が呼ばわる。ややあって、板敷の廻廊を足袋の滑る音がするすると近づいてきた。小僧の顔が半分隠れるほどの木椀が、小僧から高僧に渡される。高僧は厳かな手つきでそれを恃照に差し下した。木椀には薬湯がなみなみと(たた)えられている。

 恃照はそれを両手で(うやうや)しく受け取ると、三度頭上に捧げた。九日振りの水である。しかし不思議と渇してはいなかった。注がれた薬湯を少しだけ舐め、舌の上で転がした。

 飲むというほどの量はあえて含まなかった。飲まぬことが正しく、飲むことが誤っていると、恃照にはなぜかそのように思えたのである。堂入り中も、入堂五日目からは一日一度の(うがい)が許される。ただ、その含んだ水はすべて椀に吐き出さねばならぬ。あるべき姿はそちらだと、恃照は思った。

 ここで一口でも飲み下せば、人に戻ってしまう(・・・・・・・・)――。

 恃照は木椀を小僧に戻した。それを合図として、堂内にある衆徒らが真言を唱和し始める。

 ナーマクサーマンダバ・サラナン・センダ・マーカロシャナ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン――。

 その唱和は一つにまとまっているが、恃照はその中に、己のよく知る者の声が混ざっているのをはっきりと聞き分けることができた。憲雄の声は、恃照を優しく撫でた。

 堂入りの締めくくりは堂入りの冒頭と同様、堂内を己の足で三周することになっている。あとはその三匝(さんそう)を残すのみであった。

 九日間の断食、断水、不眠、不臥の行に比べれば、狭い堂内を歩いて三周することなどどうと言うこともないように思える。

 しかし、九日間の断食、断水、不眠、不臥の後だからこそ、この三匝は(あなど)れぬ。事実、三匝にて(つまず)くことあらば死すとの口伝もある。それだけに、恃照も出堂を決意するに時を要したのであった。

 恃照は瞑目(めいもく)し、そしてゆっくりと(まぶた)を開いた。なおも乾いているその目で、右の膝を見た。

 立てぬかもしれぬ、とは思わなかった。

 意を決し、右の掌を床に添え、少しずつ胡坐(あぐら)を解く。己の身体の節という節が何とか連動するのを感じ取り、恃照はいよいよこの堂入りを終えるのだという実感に包まれた。背を徐々に伸ばし、恃照は立ち上がった。

 そして、小僧の方へ顔を動かし、小さく顎を引いた。

 ところが、小僧らは恃照の背後から動こうとはしなかった。恃照は思いがけぬことを目の当たりにし、三匝の最初の一歩を踏み出すのを躊躇(ちゆうちよ)した。

 恃照が見下ろす小僧の頭頂は、黙して語らぬ。その頭頂を恃照はじっと見つめた。ここで小僧を問い詰めても得心のいく回答は得られまい。所詮小僧どもは高僧の言いなりに動いているだけである。

 明王堂外陣の壁際に佇む数名の高僧の中に、憲雄の姿があった。十三年前に千日回峰を満行した大行満大阿闍梨である。

 憲雄の両の目は恃照のそれを正面から見返している。その目は厳しくもあり、また哀しみを湛えてもいた。

 本来、堂入りのうちこの三匝だけは小僧の支えを受けず、行者が独力で達せねばならぬものとされている。立ち上がった恃照がまず小僧に目を遣ったのは、己のそばから下がらせるためであった。

 それが後ろに付いたままということは――。

 恃照は再び憲雄の目を見た。憲雄は暗がりの中、恃照にその鋭い眼光を放っている。恃照は憲雄の眼差しに込められた複雑な思いを汲み、黙礼した。

 背後に侍る小僧らを意にも介さぬように、恃照は右足を前に出した。無論摺り足である。続いて左足。そして再び右足。

 動く。動いている。自身の脚は確かに動いている。一間進むに十歩は要すものの、着実に恃照は前進していた。

 自らの重さというものをほとんど感じなかった。白き浄衣(じようえ)(まと)った恃照は墓場を徘徊する幽霊のように、身体の上下を伴うことなく進んでゆく。高僧ら、信者らの祈るような思いが堂内に横溢(おういつ)している。

 右目を見開き天を見据え、左目で地を(にら)みつける不動明王が、二周目に入らんとする恃照の眼前に(そび)える。歩は遅く、身体の軸はやや定まらぬが、恃照は一歩一歩、着実に阿闍梨にならんとしていた。

 不動明王像を正面に捉えると、恃照は念珠を握りしめた。

 これを終えれば、わしはあなたになる。そして、わしはわしになる――。

光佑(こうゆう)憲性(けんしよう)

 呼ばれた二人は恃照に返事する代わりに、動きを止めてその場に(うずくま)った。ともにまだ十五にもならぬ小僧である。

「もうよい」

 青々とした坊主頭が顔を上にあげ、そのつややかな唇をぱかりと開いた。どうしてよいか分からぬと見え、隣に蹲踞(そんきよ)する小僧と目を見合わせた。二名の小僧が何も発さぬのは、堂入りの最中は不要不急の際を除き声を出してはならぬというきまりを忠実に守ったというより、予想外の展開に紡ぐべき言葉を見つけられなかったようだった。

「聞こえぬか。下がれ」

 背後に侍る小僧らが動こうとせぬので、恃照は語気を少し強めた。先ほど口に含んだ薬湯の効き目は全くなく、口内はねっとりと滞っている。人の汚物をかき集めたが如き悪臭を自らの鼻で吸うに堪え切れず、恃照は最早これ以上口を開きたくないとさえ思った。

「出来ませぬ」

 光佑と呼ばれた小僧が口を開いた。左側に侍する憲性も黙して光佑に同意したと見える。恃照は鼻から息を大きく吸い込み、吐き出した。体内に充満した屍臭を換気するが如く、二度三度と繰り返した。最早己のどの穴からもこの屍臭が放たれるとみえ、諦めて口を開いた。

「……先例になかろう」

 二人を責めても仕方ないことは、恃照にも分かっている。しかし、そう言わずにはおれなかった。(こう)じ果てた光佑は、それでも恃照に言上した。

「恐れながら……恃照さまに万一があってはならぬと、憲雄さまお(じき)御下知(おんげじ)にござりまする」

「た、わ、け」

 恃照は大声を出す代わりに、一音ずつ区切った。

「自らのことは自らが一番よう分かっておる」

 己の口臭に眉を(ひそ)めつつも、恃照は続けた。

「恃照自身がこう言うておるのだ……それで十分であろう」

 口内のねばつき、喉の渇きでうまく伝えられるか自信がなかったが、以下のようなことを、(ひざまず)く小僧らの頭頂部に囁きかけた。

「わしはの、三匝くらい人の手を借りずに成就したいのだ。できることならば、すべてを己のみで完遂したいところだが、そうはゆかぬ」

 堂入りの九日においては、行者は毎夜一度堂を出て、不動明王に捧げる水を閼伽井(あかい)と呼ばれる井戸へ取りに行かねばならぬ。距離にしてわずか二町(約二百メートル)ほどである。にもかかわらず、最初の三日間こそ自らの力だけでかついだ天秤棒の両端にぶらさがる桶を支えることもできたが、四日を過ぎた頃――身体が屍臭を放ち始めた頃――になると、前後を小僧に支えられてでなくば一歩も進むことはできなかった。その取水に、手間取るとなると半刻(約一時間)ほどかかることもあった。それは恃照に限らず、先達も同様であった。

「しかし」

 明らかに狼狽(ろうばい)している小僧らに、恃照は微笑みかけた。

「お主らに累が及ぶようなことにはさせぬ……聞き届けてはくれぬか」

 小僧らが恃照への追従を止めると、恃照は再び憲雄を見た。恃照の師僧はややあって、小さく頷いた。左右の高僧が狼狽するのを、憲雄が目で制した。

 信じておるぞ、恃照――。

 恃照には、憲雄の目がそう訴えているように感ぜられた。

 恃照の三匝二周目も、半ばに差し掛かった。

 恃照の身体に異変はない。もう少し歩幅を大きゅうしてもよいとさえ思えた。明王堂の内外には大勢の一門住持や小僧、信者たちが詰めかけている。八ツ半(午前三時頃)を少し過ぎた冬の寒空の中、一人の阿闍梨の誕生を今か今かと待ち侘びているのである。

 恃照は意を決して、これまでよりも大きく踏み出した。板敷の床を踏む足の裏に、木の感触が返ってくる。鳥の(さえず)りが耳朶に触れた。一足早く、恃照を祝福してくれているようだった。不動明王に礼拝(らいはい)しながら、恃照は一歩一歩、着実に進んでいく。

 気のせいか、外が明るくなってきた気がした。日の出まではあと一刻(約二時間)以上あるはずであったが、これも我が出堂に合わせて出てきてくれたのかもしれぬと、恃照は意気いよいよ軒高となり、体内の水気が枯渇しきった身体とは思えぬほど、その動き滑らかであった。

 三周目に入る。堂内に控える人々の逸りが心の臓の音と共に恃照に迫ってくるようであった。

 (よわい)三十二の恃照が叡山に入って二十八年、出家得度から十七年。

 恃照は叡山に入ったそのときから千日回峰を強く望んでいたわけではない。

 恃照が得度を終えて三年後の冬、天候不順により、叡山の所領である上坂本(かみさかもと)下坂本(しもさかもと)は大凶作に見舞われた。この凶作は近江だけの話ではなく、全国に広がるものであった。

 折悪しくその翌年の七月には浅間山(あさまやま)が噴火し、噴煙に陽の光を遮られた稲は実をつけぬどころか、ろくに伸びすらしなかった。どの国でも、口減らしに子を売る者、他人を殺して施米を奪う者、その死体に群がり(むさぼ)()う者で(あふ)れていた。

 叡山はというと、市井(しせい)ほどには逼迫(ひつぱく)していなかった。幕府の庇護も厚い上に、檀家からの付け届けも少なくない。

 しかし、叡山の(かまど)はそもそもが火の車であった。各々の僧坊が持つ寺領からの実入りは限られており、足りぬ分を借銀として(まかな)わぬ坊はない。住持の中には地方の寺院の住持を兼帯し、少しでも実入りを増やさんと画す者すら多くあった。

 そこへ大飢饉が襲いかかり、ただでさえ少ない寺領からの実入りがさらに減った。大寺院としての叡山は、追い詰められていた。

 大寺院の中の一人の僧である恃照は、何も出来ずにいる己が歯痒かった。おそらく恃照だけではあるまい。叡山一山の、いや全国の僧の中にも、恃照と同じく己が僧としてできることがあるはずと唇を噛んでいる者はあるはずであった。

 しかし、叡山が施餓鬼会(せがきえ)をいくら行っても、京の市中へ向けてなけなしの米を施しても、そのすべてを飢饉という大津波があざ笑うように飲み込んでしまう。

 一方、叡山には餓死者はなかった。少なくとも、恃照はそのような話をついぞ聞かなかった。

 恃照は僧としての己、寺院としての叡山について、疑念を抱かざるを得なかった。

 信州(しんしゆう)善光寺(ぜんこうじ)では、餓死者が山積することにたまりかねた高僧が、寺院の蔵米のすべてを三千人以上に上る檀家らに惜しみなく分け与えたという。

 叡山には、このような中で民に施すべきことが、やろうと思えばやれることがまだあるのではないか――。

 飢饉が収まる気配のない中、恃照の師憲雄は己の千日回峰を着々と満行へと近づけていた。憲雄が無事堂入りを終えた後、(きよう)大廻(おおまわ)りの後押しとして恃照が憲雄に付き従った際、恃照は久方ぶりに京へ下りた。

 地獄絵図のようであった。

 憲雄が歩く先、どこにでも(むくろ)が重なり合っていた。そこには、堂入り最中の行者が纏うのとは違った意味での屍臭が満ち満ちていた。

 憲雄に加持を求めて跪く民は皆無である。恃照が後ろから眺めるに、憲雄はあてどなく地獄をただ一人で歩んでいるようであった。

 その師の背が、恃照に語り掛けた。

 恃照よ、よいか。

 このありさまを、ゆめ忘れるでないぞ。

 たとい軀しか転がっておらぬとしても、そこへある人々のためにできることがあるなら、わしらは足を向けるべきなのじゃ。

 わしらはたった一人でも、できることはあるはずじゃ。そこへたった一人の民しかおらぬでも、我らに施せることはあるはずじゃ。お主ならきっと分かろう――。

 憲雄は決して声にはせぬが、恃照にはその背がそう説いているようにしか思えなかった。そのような恃照が憲雄に(なら)って……と千日回峰行への思いを強くしたのは、自然と言えた。

 恃照が行の発願を打ち明けたとき、しかし憲雄は猛反対した。まるで叡山一山の高僧すべての怒りをまとめて背負ったかのような形相であった。

 恃照は、憲雄だけでなく、叡山幹部が否とする理由も心情も重々承知していた。妙な仮定ではあるが、もし恃照自身が叡山幹部であったとしても、恃照の入行は絶対に允許(いんきよ)せぬはずであった。

 が、そうせずにはおれなかった。たとえ否決されるとしても、その意思だけは示しておきたかった。示し続けたかった。

 そして思いがけぬことに、憲雄が折れた。恃照の千日回峰入行は、至極あっさりと許されたようにすら見えたかもしれぬ。千日回峰を望む僧の入行の可否を断ずる谷会議(たにかいぎ)において、恃照の眼前に座す憲雄が恃照の入行を認める旨を宣したとき、恃照は夢を見ているのではないかと己が耳を疑った。谷会議が終わったあともその疑いは晴れなかった。

 憲雄には、礼よりもまずその疑いをぶつけた。憲雄は微笑し、ただ一言、さっさと始めてしまえと告げるだけであった。

 その数日後、憲雄が顔にいくつも(あざ)をつくって滋賀院(しがいん)門跡(もんぜき)から戻ってきた。滋賀院門跡は天台(てんだい)座主(ざす)の坊である。当時の座主は眞仁(しんにん)といった。師の覚束ない足取りを見るに、師の袈裟の内も推して知るべしであった。叡山幹部、ともすると座主その人に打擲(ちようちやく)されたに違いなかった。

 恃照はその痛ましい姿を認め、己の入行が本当に許されたのだと知った。恃照は憲雄に泣いて詫びた。

 果たして三年前の寛政五年晩春、恃照は浄衣に身を包み、未だ開かぬ蓮の葉をかたどった笠を左手に、右手に提灯を持ち、深更の玉照院(ぎよくしよういん)を出峰した。

 達せずば死の荒行に入行した以上、叡山は一山を挙げて恃照の千日回峰行を満行させるほかに道はなくなったのであった。

 それゆえ、今この明王堂の片隅に集まる高僧たちは情けないほどにうろたえるのである。もし恃照が行を中断せざるを得ぬ事態となれば、つまり恃照が自害することになれば、何らかの処分が叡山に降りかかってくるのは分かりきっている。叡山の竈がさらに追い詰められることもそうだが、高僧らが最も気を揉むのはもちろん、己が処遇である。

 恃照の三匝はついにあと堂半巡を残すのみとなった。恃照の足の動きも、礼拝の動きも、一周目と特に大きな違いはなかった。

 堂内の緊張が次第に高まっていく。その流れとは逆に、恃照はいよいよ落ち着きを増し、足元を見、手元を確かめ、心の臓の鼓動を感じた。

 当行満阿闍梨、玉照院恃照。

 ついに、恃照は恃照になるのだ。わしは、わしになるのだ――。

 恃照が堂入りを行っている明王堂と同じく東塔に位置する根本中堂(こんぽんちゆうどう)中陣(ちゆうじん)では、昨冬にその座へ三度目の返り咲きを果たした天台座主が、数名の高僧と円座を組んでいた。

 時刻は七ツ(午前四時頃)に入らんとしている。まんじりともせず、皆一言も発さぬ。堂内も、皆の表情も暗い。

 聖諦は周りに気付かれぬよう、鼻からそっと息を抜いた。

 頭を巡ることは皆同じである。高僧らの眼球、首、指先、足先などがぴくぴくと動き、その動きで密談しているようであった。伝教大師最澄(さいちよう)が、延暦寺の前身たる一乗止観院(いちじようしかんいん)を建立したおよそ千年前から一度もその揺らめきを途切れさせたことのない不滅の法灯が、高僧らの影をわずかに揺らめかせている。

「遅い」

 歯嚙みする天台座主尊眞(そんしん)法親王は、ついに沈黙を破った。もう一刻以上もこの形で座している。一人の僧正が隣の僧正に目配せし、意を汲んだようにして口を開いた。

「そろそろ頃合いにござりまするが……」

 今千日回峰行堂入りを終えんとしている僧は、ただの僧ではない。

 恃照はその出自に秘匿せねばならぬ事情を有していた。他の行者は失敗しても、恃照だけは千日回峰行を失敗させてはならぬ。それは尊眞を含む高僧らを脅かすに十分たる大失態となる。

 そもそも、恃照の師である憲雄が谷会議で、あろうことか恃照の入行に賛成したことに、今回のことは端を発している。信頼を寄せていた憲雄だけに、叡山の怒りも凄まじかった。

 座主を含む高僧らが待っているのは、堂入りしていた行者が出堂する際に鳴らされる、無動寺谷の鐘の音である。もういつ鳴らされてもおかしくなかった。

「聖諦」

 座主にその名を呼ばれた聖諦が恭しく(こうべ)を垂れる。聖諦は座主の次なる言葉を待っている。

「見てき」

「……はっ」

 座主に命じられた高僧はゆっくりと立ち上がると、摺り足で門に向かった。

 聖諦の足取りは重い。

 本堂を外廻廊に出ると、叡山の遠慮なき寒気が袍裳(ほうも)を通り越し、聖諦の(はだえ)に刺さった。

 聖諦が門に至り、下駄を履いていざ明王堂へ歩き出さんとしたまさにそのとき、その明王堂から駆けてきたと思しき小僧が根本中堂への下り坂を転びそうになりながら降りてきた。

「も、申し上げます!」

 小僧は、明らかに慶事ではないことをもたらしにやってきたといった(てい)であった。

 聖諦は、膝に手をついて息を整えんとする小僧を睥睨(へいげい)している。

「せ、聖諦大阿闍梨さま。申し上げます」

 小僧は不器用に息継ぎをしながら、明王堂で出来したことを端的に伝えた。聖諦は瞑目し、唇を噛んだ。

「……相分かった。お主は明王堂へ戻るがよい」

 小僧は深々と頭を下げると、再び今駆け下りてきた坂を登っていった。

 聖諦は小僧の背中が次第に小さくなるのを、見るともなしに見つめた。

「恃照……」

 聖諦は僧の名を口にし、(きびす)を返した。

妙案

 叡山は東塔(とうどう)西塔(さいとう)横川(よかわ)の三つの区域から成る。そしてそれぞれの区域は、谷と呼ばれるいくつかのまとまりによって構成されている。叡山の諸寺諸堂をすべて数え上げると百を超えると言われており、それらの総称を延暦寺と呼んでいる。

 叡山は、「論湿寒貧(ろんしつかんぴん)」と形容されることがある。一字毎に叡山の性質が表されており、「論」は仏法をさかんに論ずる様子を指し、それ以降はみな字義のままである。

 特に「寒」は筆舌に尽くし難く、真冬など堂宇の廊下を磨く前に流す湯が、流したそばからばきばきと音を立てて凍り始めるほどであった。

 叡山に、そのような厳しい冬が訪れている。

 玉照院は、北嶺千日回峰行(ほくれいせんにちかいほうぎよう)堂入りが行われる明王堂と同じ東塔無動寺谷の、その転げ落ちそうな谷の中腹にある。玉照院は、同行の根本道場であった。

 その玉照院へ、聖諦(せいたい)が脚を急がせている。

 薄暮の境内では直綴(じきとつ)姿の小僧が二人、永遠に降り積もるのではないかとさえ思える落葉を、舞ったそばから掃き清めていた。

 来客の姿を認めると、小僧らは竹箒(たけぼうき)を動かす手を慌てて止め、深く黙礼した。北嶺千日回峰行大行満大阿闍梨(だいぎようまんだいあじやり)との対面となると、小僧らの背筋はぴんと伸びた。

 大行満大阿闍梨を前にして緊張を抱かぬ者は、叡山の僧にはない。修行地獄と呼ばれる叡山の、格別に厳しいとされる修行が同行なのであった。

 叡山には、三大地獄と呼ばれるものがある。

 看経(かんきん)地獄。横川の元三大師堂(がんざんだいしどう)にて三年間、ひたすら読経、勤行、論義、護摩供(ごまく)などを繰り返す。

 掃除地獄。西塔の浄土院(じようどいん)にて厳しい勤行を続けながら、その庭をひたすらに掃き、清め続ける。これは、侍眞(じしん)と称される僧が十二年間続けるものとされる。ゆえに、十二年籠山行(ろうざんぎよう)とも呼ばれる。

 そして回峰地獄。言わずもがな、これが北嶺千日回峰行を指す。

 行者は叡山の諸堂を、深更から早暁にかけ、ひたすら毎日巡る。

 道程は叡山の険しい山道、距離にして七里半(約三十キロメートル)。毎夜九ツ半(午前零時から一時頃)に出峰し、明け六ツ(午前六時頃)から五ツ(午前八時頃)の間に帰坊する。

 まず三年目までは、一年につき百日を連続で歩き通す。と言っても、最初の年は千日回峰行とは切り離された百日回峰行と呼ばれるもので、これを満行した者から二年目に入る者――すなわち千日回峰行に挑む者が選抜される。従って、一年目と二年目は連続しないことが多い。

 四年目と五年目には二百日を連続で歩き通す。百日あるいは二百日の間、行者は真言を唱えながら、叡山内のおよそ二百六十箇所の寺院や墓所にて礼拝し、(しきみ)の葉を供える。

 都合七百日の回峰を終えると、終えたその日から明王堂にて「堂入り」と呼ばれる足掛け九日間の断水、断食、不眠、不臥の行に入る。

 これが無事済めば、六年目に入る。この年の百日は、五年目までと同じ道程に、叡山の南西、御所の鬼門に位置する赤山禅院(せきざんぜんいん)までの雲母(きらら)坂の往復が加わり、毎日十五里(約六十キロメートル)もの距離を歩き通さねばならぬ。また、堂入りまでは自利行(じりぎよう)といってあくまでも己のための行とされているが、堂入りを終えた六年目からは他者のための行、化他行(けたぎよう)となり、京で行き交う人々の求めに応じ、加持を行う。

 そして最後の年。まず百日間は京大廻りといって、叡山回峰に加えて京中を歩く。一日に歩く距離は二十一里(約八十四キロメートル)に及ぶ。それを終えれば、最後は七十五日間、最初の五年で歩いた七里半の峰道を歩く。

 合算すると千日には二十五日ほど足らぬわけであるが、これは「残りの二十五日は生涯かけて達せよ」という意味が込められている。

 玉照院憲雄(けんゆう)は天明三(一七八三)年に千日回峰行を満行し、記録上十六人目の大行満大阿闍梨となった。史上でなく記録上と断るのは、元亀二(一五七一)年の織田信長の焼き討ちで叡山の諸堂が灰燼(かいじん)に帰し、それ以前の記録がほとんど残っていないからである。

 玉照院へ駆けつけた聖諦を迎えたのは憲雄である。

 大行満大阿闍梨どうしの間には厳格な序列があり、満行が早い順に上から位置づけられる。聖諦にとって憲雄は、いわば師のようなものであった。

「いかがにござりましょうか」

 聖諦の言葉に、憲雄の表情は一層陰った。

「まだ気付かぬ」

 憲雄の顔からは血の気が失せていた。

「このようなときにはござりまするが……憲雄さまこそどうか……お労りくだされ」

 聖諦の労いに、憲雄は首を左右に振り、目を閉じた。

 今朝、玉照院の恃照(じしよう)は、北嶺千日回峰行最大の難関と称される明王堂参籠――堂入りを、まさに終えんとしていた。衆徒の見守る中、それは成就するかに見えた。

 三匝(さんそう)に入ってすぐ、恃照が小僧らの追従を制したときは憲雄の心中穏やかではなかった。しかし、愛弟子の足取りはしっかりとしていた。

 ひょっとすると、わしが挑んだときよりも頼もしいやも知れぬ。よもや万一はあるまい――。

 そのように思った憲雄だけでなく、その場にあった誰もが当行満阿闍梨の誕生を確信していた。

 しかし三匝最後の周回で、それは起こった。

 順調に歩を進めていたはずの恃照の身体が突如、前後左右に振り子のように揺れ始めた。堂内のすべての人々が息を止めた。そしてにわかにざわつきが伝播(でんぱ)していった。

 憲雄は一人冷静であった。いや、努めて冷静であろうとした。恃照に追従を禁じられた小僧二名にすぐさま目で合図し、歩を止めて揺れ動く恃照の傍に向かわせた。聡明な小僧らは憲雄の意を汲み、電光石火、恃照へ駆け寄った。

 だが遅かった。

 あと少し、およそ一間半、そのときの恃照にとって十数歩を残し、恃照はその場に派手に倒れこんだ。そのはずみで恃照の念珠の中糸が切れ、椰子(やし)(あつら)えられた百八の大平の珠が四方八方へ散じていった。

「恃照!」

 憲雄は叫んで飛びついた。他の者どもは、ただただ動けなかった。

 抱きかかえた恃照は、口から泡を吹いていた。

「恃照、起きるのじゃ。目を覚ませ、恃照!」

 行不退(ぎようふたい)

 おそらく、堂内にある者の中でこの三字が頭に浮かばなかった者はあるまい。しかし、憲雄はその三字を払いのけ、恃照の骨と皮ばかりになった肩を揺すり続けた。

 我が子のように接してきた僧が、今その命を脅かされている。

 そのようなことにはさせぬ、何が何でも死なせはせぬ、と憲雄は恃照を揺らし、頬を叩き、背を撫ぜ、耳元で叫び続けた。

「恃照、恃照!」

 憲雄は恃照を蘇らせんと動かす手を止め、胸倉を掴んだ。

「恃照、恃照。聞こえるか、わしが分かるか」

 堂入り前の相貌とは似ても似つかぬ、頬はこけ、髪も髭も伸び放題の僧が、気息奄々(えんえん)、ゆっくりと首を縦に動かした。

「あと十歩じゃ、わずか十歩じゃ。やれるな、やれるな恃照」

 恃照は小刻みに震えながらうっすらと微笑み、そして、今度は首を小さく左右に振った。

 憲雄は恃照の右腕を掴み上げ、自らの肩にそれをかけた。そして高僧らの方へ向き、頭を垂れた。

「お許しくだされ。あとわずかにござる。この者は最早十分にその身命を賭しましてござる。どうかお許しを、お許しを……!」

 憲雄は全身で愛弟子を支えながら祈念した。高僧らが互いに目を見合っているであろう姿が思い浮かべられた。

 だが、頭を上げるわけにはゆかぬ。認められるそのときまで、上げるわけにはゆかぬ――。

 恃照の表情からはもはや血の気と呼ばれるものは感ぜられず、あと数歩歩くことはおろか、三途の川を渡りきったような顔をしていた。

 ならばわしが歩く。わしが背負って歩いてやる――。

 もし恃照に意識あらば、師のその言入(いいいれ)を頑なに断ったであろう。

 が、憲雄はここは無理を通すところだと思った。

 この千日回峰も無理を通すところから始まったのだ。それが高僧らの頭に想起されれば、無慈悲な決断には至らぬのではないか。

 どれほど経ったろう。憲雄には数刻にさえ感じられた長き沈黙が破られた。

「憲雄」

 口を開いたのは、先ほど堂入りの証明文を読み上げた執行(しぎよう)であった。憲雄は閉じた瞼に思いきり力を込めた。

「ことは……重きに過ぎる。お座主さまのお指図を要するゆえ、沙汰を待て」

 憲雄は頭を下げながら、目と口の力を抜いた。しめたと思った。そして、一縷(いちる)の望みを懸けたそこへ引っかかったことに安堵した。

 本来ならば、ここは「それはならぬ」である。平安期に相應和尚(そうおうかしよう)が回峰行を創始しておよそ千年、叡山の規律を守るためならば、ここは憲雄の懇願を却下してしかるべき状況であることは間違いない。

 だが、ここで恃照の秘すべきことどもが活きた。

 執行は焦っておる――。

 表層は冷静を装ってはいるが、膝が折れそうに震えるのを隠すのでやっとであろう。恃照の死は、叡山及びその高僧らの処遇に直結するからだ。

 恃照を預かっているという一事で、叡山は朝廷から少なくない所領や音物(いんもつ)下賜(かし)されたと聞く。無論そこには、朝廷からの「他言無用」という含意がある。憲雄にはその仔細を確かめる気すら起きぬ。生臭が、と心中(さげす)みつつ、しかしここは諾の意を示す以外に取るべき行動はない。

「……承知」

 憲雄の頭頂を一瞥(いちべつ)し、執行は高僧を引き連れて明王堂に背を向けた。(すだ)く人々も、一人、また一人と明王堂をあとにした。

 そして、憲雄と恃照の二人だけが残された。

 恃照は、まことか細くはあったが、確かに息をしていた。憲雄は己が腕の中に愛弟子を抱いた。

「わしに任せろ。よいな」

 憲雄の(まなじり)からは熱き(なみだ)(こぼ)れ落ちた。その(しずく)が、抱きとめる恃照の頬に落ち、唇へと()った。

「おいしゅう……」

 恃照はそれだけ言うと、がくりと首を垂れた。

「恃照、恃照!」

 明王堂内に差し込むように吹き入る風が、恃照の干からびた頬を撫でていた。

 差し出された茶碗を傾けたり置いたりしながら、憲雄と聖諦はしばらく沈黙を守っていた。叡山は未だ沙汰を寄越さぬ。これを吉と取るか凶と取るか、判断が難しいところであった。

「憲雄さま」

 先達たる憲雄に寄り添うように、聖諦はその声を和らげた。

「恃照は……必ずや目を覚ましましょう」

 憲雄は聖諦には応えず、唇を真一文字に結んでいる。

 そこへ、梵鐘(ぼんしよう)(うな)るような響きが届いた。その余韻が弱まり、やがてのうなる間、二人は一言も発さなかった。

 二人の頭を悩ます懸念とは、大きく三つあった。

 一つは、恃照が倒れたあの場のことである。

 あろうことか、恃照は叡山の僧らだけでなく、近隣の信者までもが堂内に入って真言を唱和する、その中で倒れた。事実を隠匿することに気をまわさねばならぬ。が、闇雲に言うな触れるななどと下手な沙汰を出すと、そこからさまざまなことを嗅ぎ取られるであろう。

 だが、これはさほど大したことではないと二人は考えている。人の噂も七十五日、一部始終を見ていたとは言え、その数せいぜい百人に満たぬ。どのような風聞が蔓延(はびこ)ろうとも、叡山が認めなければよいだけのことだ。加えて、恃照を玉照院に閉じ込めてさえおけば、噓も真に化け得る。叡山は、それくらいのことは平気で命じてこよう。憲雄は今の叡山がどのような寺院であるか、よく分かっているつもりであった。

 二つ目の懸念は一つ目よりややこしい。ややこしいが、これを何とかすれば一つ目の懸念も落着させることができる。

 果たして、恃照は堂入りを終えたのか否か、その判定である。その点、恃照は実に絶妙の時宜に倒れたと言えるのであった。

 確かに恃照は三匝をわずかに残して倒れた。これは誰がどう見ても、行不退とされる千日回峰行の頓挫である。

 ところがあのとき、叡山の執行によって、堂入り満行は実際に宣されているのである。そういう意味では、堂入りは無事完結したと押し通せるのではないか。この一点を以て、恃照は阿闍梨を名乗る値打ちがあると、何とか強弁出来ぬものであろうか。

 しかし、である。

 三匝は、堂入りの冒頭と最後に行う、言わば対となっている行である。

 その片方が欠けたとなると、これでは当行満とは言えぬではないか――。

 恃照の秘事を知らぬ者に無邪気にそう詰め寄られれば、憲雄に返す言葉はない。当行満どころか、行不退の鉄則に鑑み、恃照は自らの命を絶たねばならぬではないかと詰問されかねない。

「憲雄さま」

 憲雄は茶碗を置いて口を拭った。

「賭してみるほか……あるまい」

 憲雄の力無き嘆息に、聖諦もゆっくりと(おとがい)を引いた。

 というのも――。

 恃照は先々帝の秘された子なのである。

 しかし、(みかど)の血縁ということだけであれば、全く驚くに足らぬ。事実、徳川の世になってからの天台座主はすべて皇族から迎え入れられており、当代の尊眞(そんしん)伏見宮(ふしみのみや)の出である。恃照が帝の血筋に連なっていたとして、それ自体に支障はない。

 ところが、恃照の親とされるその先々帝が、のちに後桜町(ごさくらまち)天皇と呼ばれることになる女帝であるという点が厄介至極なのであった。

 後桜町天皇は齢三十一で譲位し、当年五十七である。所謂中継ぎの帝と位置付けられ、在位はおよそ八年に及んだ。践祚(せんそ)する以前も以後も、院は未婚で通している、ということになっているのだ。

 あろうことか、院は在位中に子を宿した。父は不明という。奈良朝の元正(げんしよう)天皇以来、女帝は未婚を通すという不文律が朝廷にはあった。事実ならば一大事である。このことが発覚するや否や、公家たちは九重(ここのえ)を右往左往したに違いない。

 秘匿に秘匿を重ね、帝は出産された。男児であった。

 わが子を帝に、と院は熱望したと言われる。また、一切そのようなことは口にせず、早々に玉体から遠ざけたとも言われる。真相は叡山の僧らには知る由もなかった。

 ただ、座主の言動やその取り巻きの高僧などの素振りや顔つきを憲雄が見るに、恃照が院の実子であることは事実らしかった。少なくとも、叡山は事実だと捉えているのだ。二人の大阿闍梨が(たの)みをかけているのはまさにそこであった。

「憲雄さま、恃照は助かりましょう。叡山は恃照を殺すことはできませぬ。それがたとえ叡山千年の(ことわり)()げることになるとしても」

 憲雄は微笑みながらも(うつむ)く。憲雄もそう思いたい。権力者がその保身に走らんとするとき、想像を遥かに超える叡智を発揮するものだ。唾棄(だき)すべきではあるが、今はそのようなものしか頼れるものがなかった。

「じゃがの……聖諦。わしがまこと気を揉んでおるのは、そこではなく、の」

「……御意」

 二人の心中を最も大きく占めていることは、第三の懸念であった。

 こればかりは二人がいくら談義したところで落着が見えぬ。これに比べれば、第一の懸念も第二の懸念も取るに足らぬ。

 第三の懸念は、恃照が目覚めたときに起こる。

 恃照自身がこの事実をどう受け止めるか――。

 おそらく、明王堂で倒れた前後の記憶は(おぼろ)(かすみ)であろう。しかし、生真面目な恃照のことである。目を覚まして事実を知れば、即座に自害を望むことは目に見えていた。執行が堂入り満行を宣したのだからと説諭したとしても、納得すまい。それをどのようにして思いとどまらせるかが、憲雄に課せられた使命なのであった。

「それに……あのようなこと(・・・・・・・)もあった。知れば彼奴(きやつ)のことじゃ、必ずや死を望もう」

 聖諦は憲雄の言葉に、沈痛な面持ちを作った。憲雄はそこで茶碗を手に取り、冷めきった茶をすすった。

 憲雄が茶碗を置くと、聖諦は憲雄の方へひと膝ゆすり出た。

「憲雄さま……実は此度(こたび)のことについて……拙僧に一案がござりまする」

 憲雄の力のない目が聖諦に弱々しく続きを促す。聖諦は小さく顎を引いた。

 明かり障子に、灰色の粒が無数に映じている。降り始めた雪の影であった。