9月17日~20日、東京・初台の新国立劇場で上演される朗読劇「たとへば君 四十年の恋歌」の開幕が迫る中、都内で最終の稽古が行われた。

 主演は、今年芸能生活50年を迎えた浅野ゆう子さんと、同じく芸能生活60周年を迎えた中村梅雀さん。大ベテランのふたりが、体当たりで最後の総仕上げに取り組んでいる。

主演・浅野ゆう子 中村梅雀

 原作は『たとへば君 四十年の恋歌』(文春文庫)。

 2010年の夏、乳がんにより64歳で亡くなった歌人の河野裕子さんと、世界的な細胞生物学者でもあり歌人としても名高い永田和宏さんの相聞歌とエッセイで編まれた一冊だ。

『たとへば君 四十年の恋歌』(文春文庫)河野 裕子 永田 和宏

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死の床で、ティッシュの箱や薬袋に書きつけた歌

 朗読劇は、乳がんが再発した河野さんが亡くなる日の前日、口述筆記で苦しい息の下から絞り出すように歌を詠む場面から始まる。

 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

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「河野裕子は、文字通り、最後の日まで歌を作りつづけた。筆圧の弱い鉛筆の字で手帳に書き残した歌は、亡くなる前の一月ほどのあいだに二百首に近くなったのではないだろうか。寝ながら、横にあるものになんでも歌を書きつけた。ティッシュペーパーの箱、薬袋、などなど。

 そして、いよいよ鉛筆を握る力がなくなると、何の前触れもなく、話をするようにして、歌の言葉を呟いていたのである」

──永田和宏『たとへば君』「残された時間」より

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「涙が止まらないです。鼻水まで出てきちゃって……」

 稽古場で何度も涙を拭っていた浅野さん。梅雀さんも「もう、涙が止まらないですよ。鼻水まで出てきちゃって、困ったな、これはどうしようと思って」と照れくさそうに笑う。

 河野さんを演じるにあたり、浅野さんは、京都にある河野さんのお墓参りに行き、墓前で手を合わせてきた。

浅野ゆう子さん

「実話であるという難しさはありますが、作品の素晴らしさ、切なさをきちんとお届けすることが私の役目だと思っています。梅雀さんに私のすべてを受け止めて、大きく大きく包み込んでくださり、芝居のスタートからカーテンコールまで一緒に連れていってくださっている感じがし、すべてを委ねることができ、とても心強いです。

 河野先生は64歳という若さで旅立たれましたが、永田先生に初めてお会いしたとき、先生が『はやいよね』と優しい声で、万感を込めておっしゃったんですね。そのお気持ちは推しはかることしかできません。河野先生の墓前で『精一杯演じさせていただきます』とご挨拶してきました。きっと『いいよ、演っていいよ』そう言ってくださったんじゃないかと思っています」

 2006年に女優の瀬川寿子さんと結婚し、10歳になる長女がいる中村梅雀さんは、こう語る。

中村梅雀さん

「男女や夫婦って、出会って、恋に落ちて、結婚して、それまで知らなかった相手の真実を知って衝撃を受けたり葛藤したりしながら変化していきますでしょう。そして子供ができて、子育ての大変さに翻弄されながらも目を瞠る成長に驚き、やがて成長して巣立っていく。

 でも、もし、そこでどちらかが病に襲われたら……僕の場合、妻は25歳年下ですので、当然自分の方が先に死ぬと思っているんですね。もし彼女が先に逝ってしまったらどうしようかと思うと、たまらなくなります。

 でも、このお二人はどんな時も、短歌という手段で、正直に、心の奥底まで赤裸々に歌い合ってきた。短歌というものが、ここまでリアルな説得力を持つことに驚きました。短歌から漂ってくる色、空気の匂い、温度、時にドキッとするような凄まじい情念を、しっかりお客さまに届けたいと思っています」

夫婦間の不信やすれ違い、孤独さえもすべてさらけ出して歌にしてきた

 永田さんと河野さんの出会いの場所は京都大学のキャンパスにあった「楽友会館」。「幻想派」という同人誌創刊のための歌会であった。

 たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか (河野裕子)

 きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり (永田和宏)

若き日のふたり(写真提供:永田和宏)

 まるで神経が剥き出しになっているような鋭すぎる感受性に苦しむこともあった河野さんを永田さんは守ったが、一方で、母を知らない永田さんを河野さんは「真ん中がない、ドーナツのような人」と思ったという。のちに、河野さんは「私がしなければならないことは、永田和宏という人を一日でも長生きさせること」と語っている。

 歌人夫婦となったふたりは、瑞々しい若き日の恋愛、貧しい中での無我夢中の子育てや子供たちへの溢れるほどの愛情、夫婦間の不信やすれ違い、どうしようもない孤独さえもすべてさらけ出して歌にしてきた。

 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る

 子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る 

 もう少しあなたの傍らに眠りたい、死ぬまへに螢みたいに私は言はう

(河野裕子)

 用のなき電話は君の鬱のとき雨の夜更けをもう帰るべし

 つまらなそうに小さな石を蹴りながら橋を渡りてくる妻が見ゆ

「この家にあなたは住んでいない」と不意にしずかな声に言いたり

(永田和宏)

この世はこんなに明るく美しい場所だったのか

 やがて、時は過ぎ、2000年、何気なく左の脇を触った河野さんは、卵大のしこりが三つあることに気く。乳腺外来でまっ黒いリンパ節が三つ映ったマンモグラフィーを見せられ、医師から悪性であると告げられる。

細胞生物学者にして歌人の永田和宏さん(写真提供:永田和宏)

 ※

「診察を終えて病院の横の路上を歩いていると向こうから永田がやってきた。彼とは三十年以上暮らしてきたが、私を見るあんな表情は初めて見た。痛ましいものを見る人の目。この世を隔たった者を見る目だった。そのときの歌。

 何といふ顔をしてわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない

 永田と別れて、鴨川沿いの道を運転して帰ったが、涙が溢れてしかたなかった。私の人生の残り時間はあとどれくらい残っているのだろう。それまでに出来る仕事のことを考えずにはいられなかった。きらきら光る鴨川の水面が美しい。出町柳界隈を、いつものように歩いたり、自転車に乗って行き過ぎる学生達がまぶしい程若くいきいきと見えた。この世はこんなに明るく美しい場所だったのか。何故このことに今まで気づかなかったのだろう。かなしかった。かなしい以上に生きたいと思った」

──河野裕子「癌を病んで」より 

 ※

あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くよりなくて  (河野裕子)

「私が死んだらあなたは風呂で溺死する」そうだろうきっと酒に溺れて(永田和宏)

短歌が綺麗ごとではなく、生きて躍り上がってくるように

 上演台本と演出を担当するのは、浅野さんと梅雀さんが全幅の信頼を寄せる星田良子さん。「短歌を綺麗ごとの言葉ではなく、ふつふつと言葉が浮き上がってくる、生きて躍り上がってくるように」(梅雀さん)演出指導をする星田さんは、ギャラクシー選奨を受賞した梅雀さん主演のドラマ『指先で紡ぐ愛』の演出家でもある。その時、まだ結婚前だった梅雀さんは、今の妻と「こんな凄い現場はない」と語り合ったという。

 音楽は、音楽博士として幅広く活動する中村匡宏さんが作品のために書き下ろし、西尾周祐さん(ピアノ)、 中西哲人さん(チェロ)が二人の四十年の音色を奏でる。

 ミュージカルなどで活躍中の加藤和樹さんが歌う挿入歌「この涙 君のもの」も解禁になった。一時間四十分に凝縮された夫妻の四十年が美しい旋律と共に体感できる舞台である。

 一日に何度も笑ふ笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため          (河野裕子)

 一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ     (永田和宏)


INFORMATION

公演情報
朗読劇『たとへば君 四十年の恋歌』

日程:2025年9月17日(水)~9月20日(土)
会場:新国立劇場 小劇場

原作:『たとへば君 四十年の恋歌』(河野裕子・永田和宏 著 文春文庫)
上演台本・演出:星田良子
音楽:中村匡宏
企画協力:文藝春秋
製作:アーティストジャパン
出演:浅野ゆう子、中村梅雀
演奏:西尾周祐(ピアノ)、中西哲人(チェロ)

料金:S席 8,000円 A席 7,000円(税込・全席指定)

お問合せ:アーティストジャパン 03-6820-3500
https://artistjapan.co.jp/

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