2013年、介護の現場で起きた殺人事件を描いた『ロスト・ケア』で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、ミステリー作家としてデビューした葉真中顕さん。以降、社会の歪みや問題をえぐる作品を次々と刊行し、新刊が出るたびに大きな話題になっています。最新作『家族』は2011年に表面化した、「尼崎連続変死事件」をモチーフにした作品。「家族」という概念が持つ負の側面とは? そして平成とはどんな時代だったのか。葉真中さんに聞きました。

 

尼崎事件に感じた得体の知れなさ

──簡単に『家族』のあらすじを説明させていただきますと、幼少時から人の心を操ることに長けていた夜戸瑠璃子(やべ・るりこ)という女が、自らの周りに疑似家族を作り出し、民事不介入を盾に家族内で犯罪を繰り返すというストーリーです。

 瑠璃子の周りに存在する人々の視点から、なぜ人が瑠璃子にとらわれてしまうのか、なぜ逃げられないのかが説得力抜群に描かれていき、一気読み必至の作品です。本作は尼崎で起こった連続変死事件をモチーフにしていますが、当時、普通の主婦風の60代女性の角田美代子(すみだ・みよこ)が他人の家族を支配し、虐待によって死に至らしめていたことは連日ワイドショーを賑わせました。なぜ今回この事件を書こうと思われたんですか?

葉真中:最初はやはり、モデルにした尼崎事件そのものに得体の知れなさや興味深さを感じて、これを小説にしてみたいという、結構単純なところから入っていきました。

──なんでこんなことが起こり得るんだろう、というところがすごく気になる事件ではありましたよね。2011年に監禁されていた女性が警察に駆け込んだことをきっかけに、翌2012年に全体像がわかっていったこの事件ですが、発覚した時、葉真中さんは30代半ばでした。これは人生の中でどんな時期だったんですかね?

葉真中:ちょうどデビュー作になる『ロスト・ケア』を書いていた時期だと思うんですよね。まだ小説家ではなくて、ライター業みたいなことをやっていたんですけど、なかなかそれで一本立ちが難しい状況で。でも、もう結婚して子供もできて家族がいて、という状況でした。

 実際、自分が家族を持ってみて、家族って世の中で言われているほどいいことばっかりじゃないというか。フィクションの中だと「家族は良きもの、安心できる場所」という印象が強いと思うし、実際そうであってほしいし、僕自身も家族には恵まれたなと思っています。それでもやっぱり、きれいごとだけじゃ片付かないことがある。

 そういう中でこの事件を知って、次々明らかになる、いわゆる家族的な関わり、疑似家族のコミュニティの異様さが、本当に恐ろしいなと。多くの人にとって安心できるはずの家族が、最も危険な場所になっている。その逆転の現象にかなり強い興味というか、これは自分の生活と地続きなのかもしれない、みたいな怖さを感じました。今振り返れば、「家族って何だろう」みたいなことを考えるきっかけになった事件だったのかなと思います。

単純にしたら、この事件をモチーフにする意味がなくなる

──巻末に参考資料がいくつか並べられていて、例えば文藝春秋から出ている小野一光さんの『家族喰い』なんかも参考にされていらっしゃったと思うんですが、この辺の資料はどのように読んで、ご自身の小説に落とし込もうとされたのでしょうか?

 

葉真中:まず、現実に起きた事件を題材にする以上、その事件を調べなければいけない。小野さんの『家族喰い』だったり、この事件を扱ったノンフィクションの本は、実はそんなに多くないんです。まとまったルポルタージュとしては2冊、研究本が1冊、あとは新聞などの記事しかなくて。逆に言うと、これらの本の中に事件の概要はかなり詳細にまとめられていて、読めば大枠は掴めるという状況でした。

 ただ、これらの資料にあたって、この事件そのものを小説化した人が今まで誰もいなかった理由が、なんとなく分かったというか。とにかく複雑なんですね。

──すごく入り組んでいますよね。

葉真中:とにかく関係者の数が多いんです。現実の角田美代子は疑似家族を作る上で、婚姻関係や養子縁組なんかを利用して、ものすごく家系図を複雑化していくわけです。これを丁寧に、彼女の幼少時から生き様を追うような分かりやすい形のモデル小説にすると、多分1000枚以上の大作になってしまう。

 この複雑な事実を、小説で語りうる物語にするための軸を探す作業が最初の仕事でした。実は最初は、この事件があまりにも複雑なので、換骨奪胎して、単純な事件に置き換え、尼崎事件っぽい全然別のフィクションにしようと思ってたんです。でもそれを書いているうちに、「この事件に私が強く惹かれた理由は、その“複雑さ”にあるんだろうな」と。

 複雑な人間関係が入り組むからこそ恐ろしいし、この複雑さを単純にしてしまったら、尼崎事件をモチーフにする意味がなくなってしまうと気づいて。そこで、主犯である夜戸瑠璃子ではなく、物語のなかでそれに巻き込まれる人を1人、主人公として立てて、その人物を軸に書いていこうという形に構成しました。

『家族』(文藝春秋)

自分がこの状況に放り込まれたら逃れられるのか

──扱っていること自体は複雑なんですけれども、読み味としてはそこまで複雑さは感じないんです。すごく読みやすくて、一気読みできる。それがなぜかというと、葉真中さんが作り出された「宗太」という主人公が夜戸瑠璃子に巻き込まれていくのが説得力抜群に描かれているからなんです。

 彼は北海道出身の若者。すぐ上のお兄さんに障害があって、お母さんはそのお兄さんにかかりきり。家族からちょっと必要とされてない感がある。高校卒業後、工場に就職するけれど2年で辞めてしまい、アルバイトを転々として経済的に困窮する中で、ある人を介して瑠璃子に出会ってしまう。葉真中さんはこの宗太にシンパシーを感じながら書かれたんですか?

葉真中:シンパシーを感じる部分と、若干突き放したというか、愚かだと思う部分と両方ありますね。でも、その愚かな部分を含めて人間だなという思いがあります。物語の中で、宗太が心の弱さゆえに悪い選択をしてしまう場面が何度もあるんですよ。その心の弱さは自分にもあるなって思っています。果たして自分がこの状況に放り込まれたら逃れられるのか、と。

「俺だったらここで逃げてる」とか「適切に対応してる」って思うかもしれないけど、人間って、極限状況に置かれた時に適切な判断や選択ができるのかなっていう疑問が僕にはあって。後から見たら過ちを犯している。でも、その場その場では、その人なりの合理性だったり、切実さだったりで選んでしまう。目の前で暴力をちらつかされて「こうしなさい」って言われた時に逆らえるのかどうか。結果論としてはこの人は愚かに見えるけど、その場では説得力がある。そういうバランスで描けるキャラクターとして宗太を作った感じですね。

──一足先に書店員さんにも何人か読んでいただいたんですけれども、「現実の事件を下地にした作品でありながら、あまりにもリアルで説得力があり、読むほどに心が折れていく」というようなコメントがありました。自分が同じ状況に置かれたら、そんなに賢い選択をし続けられないだろうなって思っちゃう小説なんですよね。

葉真中:普段、僕はミステリー小説を書いていて、いわゆる殺人事件解決型のミステリーって、賢い犯人が賢い事件を起こして、それをもっと賢い探偵が解決する。それはフィクションとして面白いんだけど、実際の現実の事件を調べてたり、裁判の傍聴なんかに行くと、賢い犯人ってほとんどいないんですよ。

 ちょっと普通に考えたらぎょっとするような選択、ぎょっとするような倫理観、ものすごくずさんな計画。でも、スルスルスルっと犯罪が成立してしまうことが現実は多くて。今回の『家族』に関しては、そういうある種の理不尽さというか、人間のちょっと愚かしい部分がもとで大きい犯罪に絡め取られていく、みたいなリアリティを描いてみたいと思いました。

暴力によって自分が変えられてしまうことの怖さ

──書店員さんのコメントですごくあったのが、「とにかく怖い」と。「早く抜け出したくて急いで読みました」とか、「読み終わるまで寝られなかった」とか。葉真中さんの作品の中でも過去最高に怖い作品だと思うんですよね。ここが怖いというより、ずっと怖い。この作品を書かれる時に、怖さを意識しながら書かれたんですか?

葉真中:この事件を小説化するにあたって、私はエンターテイメント作家なので、何で読者を引っ張るかっていうのは考えるわけです。これは結構早い段階で「恐怖」だろうと。

 怖さって色々あって、この作品の場合は、ほとんどが人間と人間の関係の中の怖さ、いわゆる「人怖【ひとこわ】」の部類です。で、考えていった時に、自分が一番怖いものって何だろう? と思った時に、ものすごく単純な話ですけど、「暴力だよね」と。

 まず肉体的に痛い。さらに、それによって支配されてしまう怖さ。もうちょっと言うと、暴力によって自分が変えられてしまうことの怖さってあるよね、と。人間はみんな「自分はこういう人間だ」っていうアイデンティティを持って生きている。だけど、目の前に暴力をちらつかされて、本当はこっちを選びたいのに「お前はこっちを選べ」って言われて選ばされた時に、もう自分は自分じゃなくなっている。

 その本質的な恐ろしさが、暴力の恐怖の根源な気がするんです。この小説の中では、暴力の怖さを背景に、登場人物たちが自分を変えられていってしまうことの恐ろしさを、いろんなところにちりばめられたらいいなと思って書きました。

──この作品では「民事不介入」もかなり大きなキーワードですが、これが悪いと単純に断じているわけではないように感じました。いつも社会的な課題を作品に込めている葉真中さんですが、そこは過去の作品と違うところかなと。

葉真中:そうですね。もしこの事件で社会課題を浮かび上がらせるとしたら、警察の問題になるんですけど、今回そこには主眼は置いてないんです。ただ、現実の事件をなぞる上で、どうして警察が介入しなかったのか、その理由はちゃんと書かなければいけない。

 でも、この小説ではそこが主眼ではなくて、むしろこうやって何度も警察に頼ろうとするんだけど、どこかで阻まれてしまう、あるいは諦めてしまう。警察に行くこと自体をやらない、という選択をしてしまう。そういった時に、これって選んでるのか、選ばされてるのか。ある種の運命的な恐ろしさを表現するための警察なんです、この作品では。

 

「ひたすら長い停滞があった平成の30年だった」

──最後に一つお伺いしたいんですが、この尼崎事件は平成の中でも最大級に凶悪な事件の一つだと思うんですが、葉真中さんにとって平成というのはどんな時代でしたか?

葉真中:僕はいわゆるロストジェネレーション世代なので、平成のイメージは、どんどん社会から活力が失われていった時代だなっていうのは正直あります。始まった頃はまだバブルで、大人たちの調子いい感じとかありましたけど、社会に出るぞってなったらもうバブルが崩壊してて、それから「失われた20年、30年」となる。

 バブル崩壊直後にオウム真理教の事件と阪神・淡路大震災が起きて、あの時って、バブル崩壊後に社会の底が抜けたなっていう感じをみんなすごく感じたんだと思うんです。その底が抜けっぱなしのまま10年ちょっと経った2011年に東日本大震災が起きて、その年の暮れにこの事件の端緒が開かれる。

 僕の感覚としては、そうやって抜けきった底の中で、さらに僕たちが自明のものとして安全安心と思っていた「家族」っていうものさえも、これほど脆いのかっていうのを見せつけられた。すでに底が抜けてしまった後の社会で、さらに降りかかる厄災みたいな。そういう印象のなかで尼崎事件や東日本大震災が連続して起きたなと。

 だから、ちょっと暗くなってしまうんですけど、やっぱり底が抜けて、ひたすら長い停滞があった平成の30年だったなっていうのが、僕の偽らざる思いですね。

──ありがとうございます。大変面白い話でした。葉真中顕さんの『家族』は文藝春秋から発売中です。一つの事件から、人間とは何かということを深く考えさせられる内容になっておりますので、ぜひ読んでいただければと思います。

対談の様子は「文藝春秋PLUS」でご覧いただけます。