『螢草』(葉室 麟)

 二〇一七年の暮れに葉室麟さんの訃報を聞いてから、もう八年が経った。だがその間も、生前に書かれていた連載が単行本にまとまったり、文庫が出たり、単行本未収録作品が発掘されたり、過去の文庫が装いも新たに再文庫化されたりと、その名前は常に書店の棚を賑わせている。作家も、作品も、愛されていたのだなあと感に堪えない。

 特に目立つのが、本書のような過去の作品の再文庫化である。一定年数が経ったあとにこうして改めて出されることで、また葉室作品は新たな読者を獲得するだろう。そんな新たな読者を決してがっかりさせないだけの魅力が葉室作品にはある。特に本書は、まだあまり時代小説に馴染んでいない若い読者にお薦めしたい。

 その理由の一つは、登場人物にある。

 葉室麟の小説は、歴史に題材をとったものと架空の藩や人物を描いた時代小説の二種類に大別されるが、その両方に共通するのが、清廉にして自らの道徳をしっかり持った主人公だ。窮地にあっても、貧乏に喘いでも、その身が脅かされても、周囲に理解されなくても、自らが正しいと思ったことを信念を持って貫く。葉室麟は常にそんな人々を描き続けてきた。著者自身の美学あるいは哲学が登場人物に反映されていると言っていい。これまで葉室作品を読んでこられた方なら、その作風は重々ご承知だろう。

 だが、そのイメージで本書を読み始めると、序盤で驚くことになる。

 なんとなれば本書は、まさかの「ドジっ娘女中奮闘記」なのだから。

女中なのに寝坊する菜々

 主人公は十六歳の菜々。彼女は武士の娘だったが、父が城内で刃傷沙汰を起こして切腹、その後は母の実家である赤村の庄屋で過ごしていた。しかしその母も病でこの世を去ったのち、菜々は居心地の悪い実家で暮らすことを潔しとせず、自活の道を探した。そして切腹した父を持つ武家の娘という出自を隠し、鏑木藩の上士・風早市之進の家で女中奉公をすることになったのである。

 英邁と言われる市之進、優しい妻の佐知。四歳の正助と三歳のとよは、多少やんちゃなところもあるが素直で可愛らしい。通いの家僕の甚兵衛も、菜々に色々と教えてくれる。女中の菜々も一緒に食事の膳に並ばせるなど穏やかで明るい風早家を、菜々はすっかり好きになっていた。

 しかし、そんな風早家に危機が迫る。家中の不祥事を探る市之進を快く思わない一派がいるのだ。その首魁は、なんと菜々が母親から聞いていた父の仇だった──。

 というのが本書の導入部だが、この菜々がまず楽しい。女中なのに寝坊する、慌てて裸足で土間に降りる、それを指摘され急いで下駄を履いたらそれは奥様のもの……これらを二ページでやってしまうのだから絵に描いたようなドジっ娘である。武家の女中にしては声が大きくて驚かれるし、主人に無礼な態度をとる親戚の頭に蜘蛛を降らせるし、人の名前を天然ボケのまま間違って覚えるしで、葉室作品には珍しいキャラクターなのだ。

 さらに菜々が出会う人々も皆個性的だ。空腹で行き倒れているところを菜々に助けられた剣術指南役。病を得た佐知の治療費を捻出するため訪れた質屋の女将。敵方の罠に嵌った市之進が拘束され、屋敷を追い出された菜々とふたりの子どもが暮らすようになった家の隣に住む学問の師匠。生計のため野菜売りを始めた菜々に難癖をつけてきたやくざの親分。皆、間違った名前で呼ばれることに戸惑いながら菜々に振り回され、いつしか彼女の味方になっていく。

人のために考え、人のために動く

 今、紹介がてらさらっと書いたが、物語は後半から一気に動く。市之進が無実の罪で捕えられたため、菜々がふたりの子どもを保護し、育てていくのだ。彼女の中にあるのは、佐知に教わった「命を守るのが女の喜び」という言葉である。明るく楽しいドジっ娘だった菜々が佐知の教えを胸に、窮地にあってもその明るさを失わず、働いて子どもたちの生活を守っていく。その一方で、市之進を助けるとともに父の仇を討つ方法を探すことになる。

 事ここに及んで、葉室麟がこの菜々に何を託していたかがわかる。この物語の中で、菜々の置かれた境遇は次々と変わる。だが彼女自身は最初からまったく変わらないのだ。彼女の明るさ、おおらかさ。楽天的で前向きで、思い立ったら迷わず走るその行動力。へこたれないところ。機転の利くところ。そして何より、常に人のために考え、人のために動くところ。彼女の中には我欲がない。父の仇を討ちたいという思いはあっても、風早家より優先順位は低い。菜々は、風早家の皆に幸せでいてほしいという思いだけで動く。そのためなら武家の出の自分が野菜売りをすることも、質屋に行くことも、なんなら刀を人に向けることも、まったく厭わないのである。

 私は冒頭で葉室作品の主人公を「清廉にして自らの道徳を持ち、窮地にあっても、貧乏に喘いでも、その身が脅かされても、周囲に理解されなくても、自らが正しいと思ったことを信念を持って貫く」と書いた。菜々もまさにこれに当てはまるのだ。だが、最初はそうと気づかなかった。なぜなら菜々に悲壮感がまるで無いからだ。葉室作品の主人公は皆おしなべてストイックだが、菜々には何かに耐えて自分を律するという空気があまり見られない。自然体なのだ。だから辛い展開でもどこか心地よく楽しく読めるのである。

 登場人物の他にもうひとつ、若い読者にお薦めしたい理由がある。それは構成の妙味だ。出会った人が次々と菜々の味方になり、協力しあって敵に立ち向かう。しかもそれぞれ、剣だったり学問だったり腕っぷしだったり物持ちだったりという異なる強みを持つ仲間で、さらには全員に妙なニックネームがついている。本書は葉室作品の中でもエンタメ色が濃い方なのだが、騎士に賢者に戦士に商人と、この構造はまるでRPG(ロールプレイングゲーム)のようにも見える。

 明るくて他人思いのドジっ娘ヒロインと、心強いパーティのこの物語を今、あらためて読み直し、気づいたことがある。これは葉室麟の挑戦だったのではないか。

女性は刀や槍ではなく心で戦う

 本書はもともと、二〇一一年から一二年にかけて「小説推理」に連載された作品である。ちょうどこの頃、葉室麟の作風にある変化が見られた。女性主人公ものが増え始めたのだ。

 最初の女性ものは二〇一〇年に出た『オランダ宿の娘』だった。シーボルト事件を、カピタンたちが泊まる旅籠の娘の目を通して描いた作品である。その後、寛永九年の黒田騒動を女性視点で描いた『橘花抄』(二〇一〇)、信長の娘を主人公にした『冬姫』(二〇一一)、女絵師を描いた『千鳥舞う』(二〇一二)、幕末を舞台に男女の生き方をテーマに据えた『この君なくば』(二〇一二)と続く。そして本書を経て、その後も『さわらびの譜』『紫匂う』『風かおる』『辛夷の花』のような武家の女性もの、『緋の天空』『山桜記』『津軽双花』『蝶のゆくへ』といった歴史上の女性を描いたものなどなど、葉室作品の女性主人公比率は増していく。本書はちょうどその変わり目に描かれたのだ。

『オランダ宿の娘』と『橘花抄』はともに歴史上の事件がモチーフになっており、渦中にいる者の視点より彼らと関わった人物の視点から──つまり外から描いた方がいいと思った、と葉室さんは語っている。だが『橘花抄』を書きながら「女性の方が意外と戦いが好きなのではないか」と感じたという。そして、これは後年葉室さんと対談した際に伺ったことだが、「女性は刀や槍ではなく心で戦う」「ステレオタイプの女性は書きたくない」とおっしゃっていた。心が持つ武器は、人によって異なる。作品によって、それは恋情であったり家族愛であったり使命感であったりするが、確かに皆、はっきりと個性の異なる別の人物だった。私見だが、葉室作品では男性主人公より女性主人公の方が個性が強いとすら感じられる。

 ステレオタイプではないさまざまな女性が、心で戦う様を描く──その初期の挑戦のひとつが、このドジっ娘女中が心強い仲間たちとラスボスに挑戦する物語なのではないか。そう考えれば、葉室麟には珍しいと感じた人物造形や構成が腑に落ちるのだ。もう確かめる術はないが、もしかしたら「最近流行りのライトノベルのような時代小説を」と考えていたのかもしれない。『武家なのを隠して女中奉公したら仇と出会いました』というタイトルで出してもおかしくはな……いや、さすがにおかしいか。ふざけすぎました、すみません。

 とまれ、本書を時代小説に馴染みのない若い読者に薦めたいと書いた理由はおわかりいただけたことと思う。もちろん、時代小説好きの読者も然りだ。あの葉室麟がどのように作風を広げ、変化していったのか。あらためて刊行順に読んでいけばまた新たな発見があるに違いない。本書はそんな初期の著者の挑戦を、楽しみながらたっぷり堪能できる一冊なのである。