愛嬌のかたまりのような江戸のおばあちゃん“おまあ”が解くのは…殺人事件!?
2026年はアガサ・クリスティー没後50年。クリスティーが産んだイギリスの田舎町に暮らす老婦人探偵、ミス・マープルを、時代小説家の諸田玲子さんが江戸の浅草に生まれ変わらせました。
丸顔で黒目がちな目、いつもニコニコしてするりと他人の心の奥に入り込むおまあさん。江戸は浅草、浅草寺の西方にある幸龍寺の一角の小家で、庭で野草を育てお茶を皆にふるまう気ままな隠居暮らしをしています。
『おまあ推理帖』より、第一章「うごめく怪文」の冒頭をご紹介します。
うごめく怪文
一
舌にふれると柚子の酸味と共にスイカズラのほんのりとした甘さが口中にひろがる。エビスグサの実の香ばしさと桑の葉の爽快さ……涼やかな青竹の器に満たされた茶は、真夏の蒸し暑さを忘れさせてくれる。
「ああ、すっきりしました」
「おまあさんのお茶はただ美味しいってだけじゃありませんね。近ごろは夜もぐっすり眠れるようになりましたよ」
「ええと、なにとなにを煎じたんでしたっけ。もういっぺん、教えてもらえませんか」
口々に褒められて、おまあは顔をほころばせた。
丸顔の上に黒眸がちの目まで丸く大きく、くちびるもふっくらしているので、小柄なのに実際よりふくよかに見える。孫がいてもおかしくない歳の女が「可愛い」といわれるのが良いか悪いかは別として――。
若いころのおまあは、自分の童顔が嫌いだった。美人は色白面長、鼻筋がとおって切れ長の鈴を張ったような目におちょぼ口……と相場が決まっている。もっとも仕事ではこの顔が大いに役立った。愛嬌のかたまりのような風貌の女をだれが警戒しようか。他人の心の奥へするりと入りこみ、いともたやすく信頼を勝ち得ることができたのは、身につけた技より生来の顔立ちと自然にこぼれる笑みのおかげだ。なればこそ、足を洗った今も、おまあの小家は近隣の女たちのささやかな憩いの場になっている。
「それはそうと、おまあさんは聞きましたか、あの噂……」
花川戸町の太物屋を息子夫婦にゆずってこの先の一軒家へ越してきたイネが、大仰に声を落として目くばせをした。
「ほら、山形屋さんの寮の離れに泊まっている旅の絵師、女将さんの絵を頼まれているそうだけど、この二人、すっかりのぼせあがって昼日中から……」
「おフサさんでしたっけ、あの人はたしか後添えに迎えられたばかりでは……」
「遊女上がりだって噂もありますからね。亭主の眼を盗むなんぞ朝飯前でしょうよ」
「わたしも聞きました。いえ、読みました。微に入り細を穿ち……おお、いやだ、口に出すのも恥ずかしい……あんなこと、見ていた者でなきゃ書けやしません」
亭主が田原町で差配をしているというユキヨと数珠屋の女房のおスガも目まぜをかわしあう。恥ずかしいなどといいながらも次から次へ出るわ出るわ。噂に戸は立てられない。噂話ほど女たちの茶話会をもりあげるものはない。
江戸は浅草。浅草寺の西方の寺町の一角に、広大な寺領を有する幸龍寺がある。おまあがこの寺の一隅に建てられた小家を借りて暮らすようになったのは、仕事を引退して二年後で、それからもう十年になる。
小家の西隣、耳を澄ませば水音が聞こえるほど近くに新堀川が流れていた。川に架かる合羽橋を渡った西岸には寺町の他、ごみごみした家々や長屋がひしめく町があり、北方はのどかにひろがる田畑、おまあの借家の周辺には商家の寮や武家の隠宅も散見される。おまあの家へ集う女たちも、暮らしにそこそこ余裕のある者ばかり。
おまあは野趣に富んだ庭や茅葺屋根に円窓のある小ぎれいな家で気ままにのんびり、女仙人のごとく余生をすごしていた。むろん霞を食べて生きているわけではない。河原へ下りれば魚介や青物を運ぶ荷方舟がゆきかい、たいがいの物は造作なく手に入る。油や米など重い物は寺男が運んでくれるし、薬を売る定斎屋や小間物屋、貸本屋もまわってくる。近隣の住人が独り暮らしのおまあを気づかって、煮物などをおすそ分けしてくれることもあった。
そんなときは、青畳の香が清々しい小座敷へ招き入れて、庭で育てた草花を煎じたものをまぜた、一風変わった茶をふるまう。同時に世間話や噂話に耳をかたむける。聞き役のおまあが人好きのする笑顔で「おかわりはいかが」などと勧めれば、皆、話すつもりのなかったことまでつるつると話してしまう。秘密めかした打ち明け話を聞いても、おまあがそれを余人に話すことはなかった。意見を求められればひとことふたこと素直な感想を返し、まれに辛辣にして的を射た諫言をつぶやくことはあるものの、ふだんはにこやかにうなずいているだけだ。
けれどその目をよく見れば、興味津々、好奇心のかたまりと化しているのがわかる。皆が取るに足らぬとおもうようなことも、おまあは聞き逃さない。
「最近いらした笹山さまご兄妹の話、皆さまはお聞きになりましたか」
「ええ、聞いておりますとも。実はご兄妹ではのうて……」
「駆け落ち者だというんでしょう。まさかねえ、それがまこととしたら、幸龍寺のご住職もだまされていたことになりますよ」
「そのとおり。あの紙には……ご覧になりませんでしたか、例の、ほら……」
「見ました見ました。でもねえ、あんなもの、いったいだれが……」
毎度の噂話だが、近頃は様相が変わってきた。というのは、隣人同士の憶測や偏見が口から耳へ伝わるだけでなく、怪文書に端を発するものが増えているからだ。つい先日も、雇い主から小銭をくすねていたと暴露された下僕が夜逃げをした。怪文書のせいで患者が減り、廃業に追いこまれた医師もいる。
「下手人もさるもの、あれではつきとめることもできません」
怪文書の墨文字は手書きではなく、一字ずつ切り貼りをしたものだとか。
「ずいぶんと手間がかかりますよ。よほどの物好きか暇人か」
「だれかが話していました。あれは読売の文字ではないかと……」
「そういえば、ひと月ほど前から、合羽橋のあたりで、新しい読売をちょいちょい見かけるようになりました」
「わたしも見ましたよ。体格もいでたちも男なのに女みたいな声音もつかう……ちっちゃな踏み台にのって、まあ、威勢ようしゃべることしゃべること……」
「そうそう。その読売、この近所をうろついているのを見たって人が……」
女たちはおまあに案じ顔を向ける。この小家も垣根越しに覗かれていたなどと聞けば、おまあとて心穏やかではいられない。
「おまあさんはお独りですから、くれぐれもお気をつけて」
「昔のことを、あることないこと、いいふらされるやもしれませんよ」
見ず知らずの読売に易々と過去の秘密を暴かれるようなおまあではない。おまあの素性を知ったら、ここにいる女たちはさぞや仰天するはずだ。
おまあは、ほほほ……と笑った。
「こんな婆さんの昔話など、おもしろうもないでしょう。それにね、この年齢になれば、なにをいわれたって動じやしません」
しばらく世間話に興じたのち、おまあは女たちを見送ろうと門前へ出た。門、といっても来客を知らせるための風鈴を取りつけただけの簡素な木戸門である。
風鈴がチリンと鳴って、ふっとおもいだした。
「今日はおミヤさんがおりませんでしたね。まだ臥せっておられるのかしら」
数日前、風鈴が鳴ったので出てみると、おミヤに仕える女中が突っ立っていた。おミヤの亭主は、幸龍寺の北方に田畑を多数所有する名主の藤七である。
女中のエイは十代半ばか。三白眼の垢ぬけない娘で、おミヤからいつも小言をいわれている。女たちが小座敷で談笑しているときは台所の片隅で待たされているのだが、茶を出してやっても、遠慮しているのか、禁じられているのか、頑なに口をつけない。
このときも何用かとたずねたが要領を得なかった。相談事でもあるのかとおもったのでお入りなさいと勧めたが、門前から動こうとしない。再度問いただしたところ、心の臓の病を抱えるおミヤの体調がこのところすぐれないため、おまあの茶を所望しているという。快くドクダミに甘草を混ぜた茶葉を手渡し、ついでに傷に効く塗り薬も所望されたので、オトギリソウを煎じた傷薬を蓋つきの瀬戸物に入れて持たせてやった。
「お具合が悪いとは存じませんでした。今朝、急にごいっしょできないと伝言があって……」
「ええ。お誘いしたのですが、ご遠慮すると……」
「さようでしたか。もしお会いになったら、お大事に、とお伝えください」
女たちを送り出した。
平穏な日々がつづいている。命の危険にさらされる心配のない暮らしをしみじみありがたいとおもう半面、少しばかり物足りなく感じることもあった。
まったりとやさしい風味の茶もよいけれど、ときにはぴりりとした味も捨てがたい。
「そうそう、生姜茶をいれてみましょう」
おまあは独りごちて、小家の内へもどっていった。
二
翌日、幸龍寺の住職が訪ねてきた。
「これが例の……」
さしだされた半紙を、おまあは手に取って眺める。楮の粗い紙に切り貼りされた文字が斜めになったり間のびしたりと不細工ながらも並んでいた。噂には聞いていたものの、実物を目にするのは初めてだ。
「こんなものをばらまかれたら、表を歩けのうなりますね」
笹山安太郎は上役の若妻に懸想し、無理やり関係を結んだあげく、このままではすまぬと脅して駆け落ち、幸龍寺の僧某に兄妹と偽って匿ってもらった……噓か真か、悪意に満ちた言葉でつづられていた。
「お二人とも困惑して夜も眠れぬありさまにて。反論しようにもだれにすればよいかもわからず、怒りをぶつけることもできず……」
正体不明の敵に闇討ちをかけられたようなものだ。己は安全な場所にいて一方的に悪口雑言を浴びせることほど卑劣な行いはない。
「根も葉もない話なのですね」
「ゆえあって身元は明かせぬが、正真正銘のご兄妹。忌々しきことなどいっさいござらぬ」
「和尚さまが仰せなら疑う余地はありません。でも、なにゆえわたしに……」
「内々に下手人を見つけてもらえぬものか、と」
「わたしにはとても……さようなことでしたらお上に……」
「奉行所の連中が嗅ぎまわれば、下手人は用心して尻尾を出さぬ。近隣の者たちも動揺しよう。余計なことまで詮索されるのではないかと戦々恐々……」
そのとおり、住民は怯え、ますます混乱するはずだ。
「おまあどのなれば、だれにも怪しまれずに下手人を見つけられる。奉行所に知らせるのはそれからでも遅うないとおもうが、どうじゃな」
たしかに一理あった。おまあなら話を聞き出すのは日常茶飯事。噂話の断片から真実を導き出すのもお手の物。住職はおまあの才を知る、数少ない人物の一人である。
「このとおり。これ以上の騒ぎにならぬよう、ぜひとも穏便に……」
「お役に立ちたいのはやまやまですが、気ままな隠居暮らしをはじめて長い歳月がたちました。今さらさような大役がつとまりますかどうか……」
「いやいや、おまあどのの数々の手柄は、彼のご仁よりうかごうております。拙僧も、おまあどのなれば期待にそうてくださる、と」
おまあが寺領の片隅の小家で不自由なく暮らしていられるのは、幸龍寺と縁の深い彼のご仁の口利きのおかげだった。その恩をおもえば、むげに断るわけにはいかない。
「では、話を聞き集めてみましょう」
承諾の意を示し、住職を送り出した。となれば、まずはおまあ同様、幸龍寺の一隅で仮住まいをしている笹山兄妹を訪ねることから。おまあはすぐさま仕度にとりかかった。
笹山安太郎の妹サトエは、すれ違う者の十人が十人ふりかえる美貌ながら、気の毒なほど窶れていた。落ちくぼんだ双眸に憔悴の色が濃い。
「初めはわからなかったのです、なぜ、奇妙な目で見られているのか……」
「ところがこれと同様の怪文書が見つかった」
「名主のお内儀さまが持ってきてくださいました。玄関先に置かれていたそうで、風で飛ばぬよう重石がしてあったとか。見せてもよいものか、さんざん迷われたそうですが……」
「これは幸龍寺の本堂に置かれていたもの。ということは、他にもあるはずです。皆、破り捨てたか、竈にくべてしまったか」
サトエもうなずいた。
「お内儀さまのおかげで、白い目で見られる訳がわかりました」
兄妹は親を亡くし、人捜しのために江戸へ出て来たそうで、生れは下総国。同郷のよしみで幸龍寺の僧を頼り、しばらく寺領の一隅に住まわせてもらうことになったという。
「兄は出かけております。両国の広小路で尋ね人を見かけたとの話を耳にはさみましたので」
江戸は広い。人捜しは難儀をきわめる。それでも捜しまわっているのだから、よほどの事情があるのだろう。もしや仇討ち、ということも……。
「怪文書の他に、なにか嫌がらせをされたことはありませんか」
「いいえ」
「この近くで訪ねたり訪ねられたり、親しゅうしているお人は?」
「こちらへ参ってひと月もたっておりません。名主さまやご住職にはご挨拶をいたしました。名主の藤七さんはそれはご親切で、仕事を探しているなら、子守に雇ってくださると……」
藤七とおミヤ夫婦には子供が三人いる。
「子守をなさるのですか」
「このままでは手元不如意になりますし、ありがたいお話で、わたしは乗り気だったのですが、兄に反対されました。住みこみなど断じてならぬ、と」
妹が住みこみで働くのを兄が反対したという話も、二人が駆け落ち者だと噂される一因になったのかもしれない。
「サトエさんなら、郷里でも断り切れぬほど縁談がおありだったでしょうね」
おまあがいうと、サトエは頰を染めた。
「両親が生きていれば……今は、なにもかも変わってしまいました」
「人の噂も七十五日。しばらくはお辛いでしょうが、聞き流しているうちに皆、忘れてしまいます。一喜一憂せず、ドンとかまえておいでなさい」
合羽橋の東岸、寺町の裏手にある山形屋の寮の離れを訪ねると、絵師の玉芳が絵を描いていた。おまあから怪文書についてたずねられるや、投げつけるように絵筆を置き、ぎらつくまなざしを向けてくる。山形屋に頼まれて女将の絵を描いた。数日、二人きりで離れにこもっていたこともあったが、それはあくまで絵を描くためで、怪文書に書かれているような関係はなかったと一気にまくしたてる。
「いってぇどこのどいつが、そんな噓っぱちを……」
離れの入り口に置かれていた怪文書は怒りにまかせて即座に破り捨ててしまったそうで、おまあが持参した笹山兄妹の怪文書までひったくろうとした。素早くふところへしまったものの、まだ憎々しげにおまあの手元を睨みつけている。
「山形屋の女将さんは吉原で人気の花魁だったそうですね。落籍される際に、なじみ客とひと悶着あったと聞きました」
本当になにもなかったのか。居心地が悪そうに尻をもぞもぞさせ、視線をあらぬ方に泳がせている玉芳を見れば、大いに疑わしかったが……。
玉芳は舌打ちをした。
「山形屋は女将にぞっこんだ。だから絵まで描かせてるんだ。有りもしねえ噂がひろまれば、こちとらの首も危うい。いいかげんにしてくんな」
密通は重ねて四つにされても文句はいえない。怪文書をばらまかれて、玉芳は恐怖にかられているのだろう。
「仕事を放り出して逃げれば、事実を認めたようなものですよ」
「わかってらぁ。だからここにいるんじゃねえか。仕上がったらとっととずらかるさ」
若くもなし、色男でもなし、ふところも寒そうだが、旅の絵師には地に足をつけて生きている男たちにはない魅力があるようだ。奔放ゆえの面白さ、それは怖いもの見たさと同等の危うさといえるかもしれない。おまあはかつてこうした男にひっかかって災難を抱えこんだ女たちを何人も見ている。
「怪文書ですが、なんぞ、お心当たりはありませんか」
念のためにたずねてみた。
玉芳は忌々しげに鼻を鳴らした。
「ここへ来てまだ十日もたたねえんだ。山形屋以外、知り合いはいねえ。こいつを書いたやつは、母屋を訪ねたついでに離れをこっそり覗いたってことさ。下手人が知りたきゃ、山形屋へ出入りしている者を調べてみるこったな」
「よいことをうかがいました。では山形屋さんにたずねてみます。あなたは一日も早う絵を仕上げて、堂々と出てお行きなさい。厄介事に巻きこまれる前に」
帰ろうとすると呼び止められた。
「今見てわかったんだがよ、そいつは読売じゃねえか。反故になった摺物から文字を切りとって、まっさらなやつに貼りつけたんだ」
「手蹟を隠すためとはいえ、たいそうな手間がかかりますね」
おまあが首をかしげると、玉芳はうんざりしたように片手をふった。
「手仕事が苦にならねえやつ、暇をもてあましているやつならいくらもいるさ。ウン、よっぽどひねくれた野郎の仕業にちげえねえ。切っては貼る、切っては貼る、切っては貼る……おいらはまっぴらごめんだね、指が痛くなっちまわあ」






