2026年1月31日、映画監督の長谷川和彦さんが多臓器不全で逝去されました。
長谷川作品から影響を受けてきたという小説家の波木銅さんに追悼エッセイをいただきました。波木さんはデビュー作『万事快調〈オール・グリーンズ〉』で映画『太陽を盗んだ男』に言及しており、今年1月に公開された映画版では、『太陽を盗んだ男』に登場する東海原発近くでロケが行われました。
1999年生まれの波木さんが長谷川作品から受け取ったパワーとは。
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巨大な力
ちょうどこの原稿を書いているまっただ中に選挙があった。結果を漢字一文字で表すなら「Fuck」だろう。今日も今日とてファシストどもが幅を利かせて、世界をつまらないものにしていく。
楽観視するフェーズはとっくに過ぎた。せめてマイナス100からマイナス99に近づいていくことについて考えている。怒り、騒ぎ、権威を嘲笑し、ダメージを与えるための手段を……。なんかあるかな~。
ちょうどこの感覚は『太陽を盗んだ男』の空気感と呼応する気がする。
なんせあの長谷川和彦に対する追悼エッセイだ。
しみじみと語って「ご冥福をお祈りします」で締めるような、毒にも薬にもならないテキストなら書かないほうがマシだ。
私は99年生まれのデジタルネイティブのZ世代ベイビーだ。
いわゆる「世代論」的な分類なんてマジで、心底、死ぬほどどうでもいいが、70年代の終わりをある種象徴するような作品たる『太陽を盗んだ男』が“現代の若者”(両手の人差し指と中指をクイックイッと曲げつつ)になにをもたらしたのか、について書こうと思う。
ある意味、彼ほど後追い世代にフレンドリーな映画監督も多くない。
たった2本で全作見たことになるし。
私が長谷川和彦監督の名を鮮明に記憶したのは16歳のころだ。超多感なティーンのときに『太陽を盗んだ男』に触れたわけだ。
当時はまだレンタルビデオ産業がかろうじて息をしていて、放課後、ツタヤに毎日のように通っていた。そこでは中学時代のあんま仲良くなかった元同級生がレジのバイトをしていて気まずいんだけど、住んでた町に店はそこしかなかった。
2、3本レンタルして、夜中にポータブルDVDプレイヤーで見たのちに返却してまたレンタル……というルーチンで生活していた。とにかく1本でも多くの映画を見たい、という思いに駆られていて、睡眠時間を削って手当たり次第に見まくっていたと思う。『カサブランカ』とか『市民ケーン』とかまで、わざわざ金を払って真面目くさったツラでじっくり鑑賞していたわけだ。今そのときと同じような習慣で生活しろと言われてもきっと無理だ。もうそこまで貪欲にはなれない。『太陽を盗んだ男』については、伝説的な作品として頻繁に取沙汰されるので見る前から知ってはいた。
沢田研二演じる冴えない教師が自作の原爆をもって国家を脅迫する……。なんて痺れるあらすじなんだろう! 見たかったけど当時最寄りのツタヤには在庫がなく、しばらく待ってほかの店舗から取り寄せてもらったはずだ。そういうサービスがあった。
沢田研二が双眼鏡を覗いている場面がタイトルバックだ。視線の先には海沿いの原発がある。彼はここに忍び込み、プルトニウムを盗んで原爆を作るのだ。
あらゆる面で無知だった当時としても、原子力に無関心ではなかった。実家は作中にも登場する東海原発のそれなりに近くにあり、そこら辺に住んでる者にとってはけっこう身近なものだった。
東日本大地震で化けの皮が剥がれる前の話だけど、東海村には「ウラン坊や」や「プルト君」などとのたまうフザけたマスコットのいる原子力科学館やミュージアムなんかが複数あり、近隣の小学生は遠足で足を運んで町ぐるみのプロパガンダを受けることになっていた。
どことなく存在感があったその原発が、作中で巻き起こるカオスの発端となる。年代も立場も全く異なるけれど、この映画が自分の生活とどこか地続きであるような気がしたことを覚えている。
作中では核爆発を「物質が物質でなくなる瞬間に発生する巨大な力」と表現する。そのような圧倒的なパワー、国家を揺るがすほどの力をせっかく手中に納めたというのに、沢田研二は大金や権力を手にすることも、革命を起こすこともしなかった。原爆と一緒に過ごしすぎたせいで被曝しちゃうし、ストーンズも呼べなかった。
手に余る力を持ってしまった人物の壮大な空回りを描いた映画であるともいえるかもしれない。彼はどこかで間違えたわけではなくて、はじめから勝てない戦いに身を投じて、そもそも勝つつもりもなかったのだ。
拙作『万事快調』と、それを原作とする児山隆監督による素晴らしい映画は前述の東海村を舞台としており、映画は多くの場面で実際に東海村で撮影された。
高校生が大麻の栽培と密売で金を稼ぐというシナリオで、テーマやプロットには多くの面で『太陽を盗んだ男』からの影響がある。自分を構成するルーツのひとつといってもいい。
『太陽を盗んだ男』もさることながら、前作『青春の殺人者』もまた、長谷川和彦作品はドライかつ無常、登場人物たちに寄り添ったりはしないクールな視点を徹底している。
現代に蔓延するポピュリズムは巨大な力だ。それに対抗するための別種の力が、生ぬるい共感を拒絶する、長谷川和彦的スタンスではないだろうか。私は、それを手にしたい。
最後に、どちらかといえば諦観のある長谷川作品群から、あえて逆説的に、前向きなメッセージを得るとしたら……。
お前はどうせヒマだし、とくに失って困るものはなにも持ち合わせてはいないんだから、戦えよと、勝てなくてもいいから、せめて権威主義者の眉を顰めさせるくらいのことはしてみろよ、ということだろうか。チンケな共同体意識で馴れ合うな、パニックをもたらせ、と。
しかと受け取った。
爆弾は作り終えた。いつどこで、なにに使うか。それが重要なのだ。まずは手始めに……
あっ
ドカーーーーーーーーン
波木銅(なみき・どう)
1999年、茨城県生まれ。大学在学中の2021年、『万事快調〈オール・グリ―ンズ〉』で第28回松本清張賞を受賞しデビュー。他の著作に『ニュー・サバービア』『順風満帆〈クラウド・ナイン〉』がある。









