はじめに

山口周

■優秀さの定義が書き換わる

「人文科学は役に立たない」と、長らく言われ続けてきました。

 教養は大いに結構だが、それを身につけることで、コンピテンシーは向上するのか? パフォーマンスは上がるのか? 生産性は向上するのか?

 こうした問いに明確な数字で答えられない学習は、ビジネスパーソンにとって不必要なもの、ディレッタントの趣味、言うなれば「贅沢品」として扱われてきたのです。企業研修の場でも学校教育の現場でも、まず優先されるのは、会計、財務、統計、プログラミングといった「すぐに役立つスキル」でした。

 なるほど、確かにかつてのような世の中において、それらは重要だったかも知れません。しかし、私たちはいま、スキルや知識の序列の前提そのものが揺らぐ地点に立っています。理由は二つあります。

 一つは、AIの登場です。

 AIの登場によって、「正解を出すスキル」が急速にコモディティ化しています。

 かつては、早く調べられる人、正確にまとめられる人、整った文章を書ける人、複雑な計算ができる人が「優秀」とされてきました。言い換えれば、優秀さとは「情報処理能力」であり、「正解への到達速度」でした。

 ところがいまや、これらの多くをAIが、人間より速く、安く、安定して実行するようになってきています。2026年1月、大学入学共通テスト15科目のうち、ChatGPTが9科目で満点をとったことが大きな話題になりました。これまで「試験で高い点数を取れる」ということが、人間の「優秀さ」を測る最も重要な指標だったわけですが、安価に提供される機械が、最優秀な人間のパフォーマンスを凌駕するようになってきているのです。これから、私たちは「優秀さの定義が書き換わる」という時代のコンテキストを目撃することになるでしょう。

■AIに代替される知的生産

 そもそも知的生産とは何でしょうか。大きく整理すれば、知的生産は

 1:アジェンダの設定
 2:仮説の構築
 3:情報の収集
 4:情報の分析・統合
 5:情報の出力

 というプロセスで進行します。

 これまでの社会では、これらプロセスの多くを人間によっていたわけですが、AIの登場によって、3~5のプロセスは大規模に機械によって代替されつつあります。その結果、知的生産による差別化の源泉は、これまで以上に「1:アジェンダの設定」と「2:仮説の構築」の二つに求められるようになりつつあります。AI時代の競争優位は「正解を出す力の差」よりも「問いの質の差」になっていく、ということです。

■「正しさ」が揺らぐ

 さてしかし、スキルや知識の序列の前提そのものを揺るがしているのはAIだけではありません。もう一つ、より根源的な変化があります。それが「正しさ」の揺らぎです。

 近年の国際政治を見れば明らかなように、現在の世界では「何が正しいのか」についての合意そのものが、急速に崩れつつあります。強大な権力を持つ国家が、国際的なルールや合意よりも、自国の論理を優先する。事実と虚偽の境界が、意図的に曖昧にされる。これまでに合意されていた「正しさ」が、立場によって簡単に反故にされる。

 このような世界においては「どっちが正しいのか」とか「誰が正しいのか」という議論そのものが意味を失います。こういった問いは「唯一の正しさがある」ということを前提にしていますが、現在の世界では「正しさ」そのものが断片化し、普遍的な規範を外側に求めることが難しくなっているのです。

 かつての世界では、優秀と言われる人ほど「普遍的な外部の規範」に依拠しました。会社のルール、業界の慣行、国家の方針、専門家の見解、あるいはそれらを束ねた「常識」。それらをよく知り、従っていれば、少なくとも自分の判断は免責される。正解があるとは言えないにせよ「間違いではない場所」に立つことはできました。

 しかしいま、その足場が揺らいでいます。いま、ここで、私はどのように判断すべきか。何を受け入れ、何を退けるのか。どこまで許容で、どこから越境なのか。短期の合理性と長期の倫理が衝突したとき、どう折り合いをつけるのか。二つの正しさが衝突するとき、何に基づいて調停し、どのように意思決定するのか。

 この「判断」を引き受けられるかどうかが、個人の強さを分け、組織の質を分け、社会の活力を分ける時代になっています。

■世界を理解するための見取り図

 この二つのコンテキストは、私たちに人文科学を要請します。人文科学は、知的スノッブを気取る人たちのファッションアイテムではありません。それはなんらかの形で社会に関わり、その発展を担う人にとって、「アジェンダを設定するための知的基盤」となり、仮説を構築するためのデータベースとなり、さらには規範を内側に育てるための倫理の苗床となるのです。

 哲学は私たちが当たり前に受け入れているものに対して批判的な眼差しを向け、「なぜ、そうなのか」「なぜ、他ではないのか」を問いかけさせます。つまり前提を疑い、価値を多元的に吟味する学問です。

 歴史学は私たちに「それはどこから来て、どこへ向かうのか」と問いかけることを教えます。人類が過去に何度も同じ失敗を繰り返してきたことを示し、私たちがいま置かれている局面を、長い時間のスケールのなかに位置づけてくれます。

 文学は私たちに「人はなぜ、そのように感じ、行動するのか」を描く想像力を与えてくれます。合理性だけでは説明できない欲望、恐れ、嫉妬、愛、希望。そうした人間の深層に触れさせてくれます。

 これらはすべて、世界を理解するための「見取り図」を更新する営みです。

 私は、人文科学を「教養」や「嗜み」と呼ぶよりも、むしろOS(オペレーティング・システム)だと考えています。どんなアプリケーション(スキル)を動かすか以前に、どのOSで世界を見ているかが、意思決定の質を決めてしまうからです。

 同じデータを見ても、同じ出来事に直面しても、人によって洞察が分かれるのはなぜなのか? その差を生むのは、能力の差ではなく、「世界の切り取り方」の差です。

 そしてAIが普及すればするほど、この差による影響も拡大します。なぜなら、AIは「問い」を代替しないからです。問いが曖昧なら、AIは曖昧な答えを返します。問いが浅ければ、AIは浅い答えを返します。問いが強ければ、AIは強い道具になります。

 つまり、AIを使いこなす鍵は、AIの操作方法ではなく、問いを立てる力と仮説を構築する力にあります。

■「判断の基準」をつくるための訓練

 そしてもう一つ、正しさが揺らぐ時代においては、規範を外部に委ねられない以上、私たちは自分の内部に「判断の基準」を持たねばなりません。人文科学は、その基準をつくるための訓練でもあります。

 この状況に対して、真正面から異議を唱え、実践しているのが、COTENという会社の取り組みであり、この会社を経営している深井龍之介さんです。

 深井さんは、人文科学を「知識の保管庫」ではなく、社会を動かすエンジンとして扱っています。歴史や哲学を、現代の課題に接続し、「使える形」にまで翻訳している。私はこの姿勢に、強い共感を覚えました。

 人文科学は、装飾品ではありません。慰めでもありません。ましてや、逃避先でもありません。武器です。混乱した世界で、自分の足で立つための武器。情報が溢れる時代に、意味をつくるための武器。そして、正しさが揺らぐ時代に、「いま、ここでどう判断すべきか」を引き受けるための武器です。

 本書は、「人文科学が大事だ」という一般論を語るための本ではありません。AI時代において、人文科学がどのようにして、思考を変え、判断を変え、行動を変えるのか。その作動原理を、できるだけ具体的に解き明かしていきます。

 読み終えたとき、世界の見え方が、少し変わっている。問いの立て方が、少し変わっている。そして何より「考えること」が、少し楽しくなっている。そうした体験をしていただけたなら、著者としてこれ以上の喜びはありません。

 この本が、あなたにとっての「新しい武器」になることを願っています。


「はじめに」より