むかし黒岩周六という男がいた。筆名は涙香。
流行作家にして稀代の新聞人。社主として創刊した『萬朝報』は、スキャンダル報道で知られ、「マムシの周六」の悪名をひろめる一方、内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らを擁して、硬派の論説を牽引した。萬朝報はさらにまた、涙香をして「探偵小説の元祖」と呼ばしめる連載小説の数かずによって、多大な読者を熱狂させた。
まずは、この男の来歴からはじめよう。
一八六二(文久二)年、土佐、高知県に生まれた。生家では次男、叔父方の養子となり、戸籍上は長男、平民から士族身分となった。周六という名には、東西南北と天地あわせて六合世界に周し(広く行き渡る)といった時代の気運が託されている。没年は、一九二〇(大正九)年。没後百年を過ぎた。
明治という時代を代表する人物が多くこの年代から輩出された。くわえて、薩摩長州による明治藩閥政府支配への旺盛な反抗心が生国によって培われる。
土佐は自由民権運動の拠点。その土地に育った青年が運動の渦中にとびこんでいくのは自然だった。故郷では漢文の素養を身につけた。大阪に出て、英語を学ぶ一方、演説会で頭角をあらわす。コレラの流行した大阪を離れ、東京に移り、研鑽と演説修行の日々をつづける。十七歳だった。政治・法律・国際情勢などを、貪欲に独学で修得する。自説を新聞の投書欄に投稿する常連ともなる。故郷にはそれほどの愛着を示さなかった。明治新政府への批判を展開するジャーナリズムに席を得るのは当然の道行きだった。十九歳のときに書いた政府高官への攻撃文が、後に筆禍をまねき、重禁錮、強制労働を科せられる。この得がたい「教育」の効用については、あらためて検討しよう。
二十四歳で『絵入自由新聞』の主筆となる。ジャーナリスト時代は、二十代の前半を占めている。自由ではあるが、貧窮の逸話も少なからず遺っている。
それから、ほとんど連続的に、彼の第二の履歴がはじまってくる。探偵小説『法庭の美人』翻訳の新聞連載である。一八八八(明治二十一)年。涙香小史の筆名を使う。この大ヒットを機に、人気作家という彼の「第二の顔」が怒涛の進撃につく。
注意すべきは、ここまでの彼の経歴に「小説家志望」といった項目がほとんど見つからないことだ。作家の誰しもが持つ修行時代というものは記録されていない。親しい友人による《君が西洋小説の翻訳は全く一時の余戯で、涙香小史の名もホンの一時の仮の名で、素より永久に存する考へではなかつた》という証言も遺されている。
論説家から、突然、流行作家に──。この転身をどうみるか。涙香作品が引き起こした以降の「探偵小説ブーム」の勢いにまぎれて見落とされがちだが、もっと掘りさげられるべき観点だ。
二十代の後半は、こうして翻訳探偵小説の新聞連載に費やされる。『都新聞』社員となり、同新聞の発行部数を飛躍的に高めた。新聞連載小説の人気が発行部数を左右する時代だった。涙香の名を不朽にする名作・傑作が、この時期に集中している。
そして『都新聞』経営者とのトラブルが発生する。退職する涙香に、『東京朝日新聞』『中央新聞』などから「専属作家」として高額のオファーがあった。しかし彼が選んだのは、組織の一員となることではなく、自らの運営になる独立不羈のメディアを興すことだった。経営者として、主筆として、すべて周く裁量できる自前の新聞だった。『萬朝報』の誕生である。一八九二(明治二十五)年十一月。
当時の新聞は、政治主張の論説を主体にする「大新聞」と世相の話題を提供する「小新聞」とに分類される。『都新聞』までの涙香がかかわってきたのは後者だった。萬朝報の参入は、ここに「独立系新聞」という分類項をつけ加えた、と評価される。
萬朝報は創刊数年にして大成功をおさめた。新聞発行部数ランキングの首位に立ったのである。大衆に求められるメディアとしての記録を遺した。成功の要因は二つの大車輪にあった。一つは涙香の連載小説、もう一つは初期の萬朝報が精力的に展開したスキャンダル報道。どちらもがまぎれもない涙香の個性だった。マムシの異名で怖れられる作家・言論人が誕生した。
「梁山泊」時代へ
これらの成功を土台にして、萬朝報は、有力な論説家を社員にまねき、独立系にふさわしい知的論説紙という方向をも模索していく。このため、萬朝報は知識人向きの「学生新聞」と呼ばれるような時期を持った。同時に、涙香は、多彩な趣味を拡げることにも紙面をさいた。都々逸、歌留多、角力(相撲)、玉突き、囲碁など。明治のサブカルチャーを取りこんでいった。論説といわず、娯楽趣味といわず、すべて涙香という乱反射する破格の個性によって発信された。
涙香の連載小説には『巌窟王』『噫無情』という二大作品がある。無名の娯楽小説の翻案をつづけた後、よく識られたフランス小説の「圧縮日本語化」を実現した。探偵小説の枠にとどまらず、アレクサンドル・デュマ、ヴィクトル・ユゴーといった十九世紀小説の代表作を選びとり、周く社会相全体を視野におさめるパノラマ的社会講談小説を展開した。それは、新聞連載のかたちで普及していった。萬朝報の紙面の一角でなければならなかった。
相次ぐ成功の日々は、萬朝報の「梁山泊」時代と称される栄光の時期をつくった。それが崩壊していくのは、明治二度目の対外戦争である日露戦争(一九〇四~〇五年)のときだった。国家と国民をめぐるイデオロギーは、開戦論と非戦論とに二分され、萬朝報は開戦論に加担することになる。戦争は新聞の社会的役割をも劇的に変えた。
戦勝の国民的興奮から明治の終わり(一九一二年)まで長くはなかった。政局の混迷と都市民衆運動の激化が、大正政変ともいわれる状況をうみだす。大正ポピュリズム──。山本権兵衛内閣倒閣から大隈重信内閣成立への動き。萬朝報はその渦の中心にあった。
新聞人が政治家への転身をはかるケースは、珍しくない。涙香は、それを選択しなかった。新聞人として政局を動かすことに徹した。だが、翻訳小説家としての仕事は激減する。政治に深入りしすぎた、という評価もある。「萬朝報の時代」は、陰りをみせはじめていた。
彼は、一九二〇年代を待たずして世を去った。一九二〇(大正九)年、享年五十七。現代社会のスタートラインといわれる時代の前だ。もはや遠い過去にも想える。
国権と民権、文学と非文学
萬朝報はわたしだ。
──黒岩涙香を一行で尽くすなら、こうなる。西洋十九世紀の小説家フローベルは、自分の小説の主人公の名に重ねて「ボヴァリー夫人はわたしだ」といった。しかして、わが明治のこの一代男は、自分の創った新聞に自らの全存在を重ねて、こう宣言した。萬朝報はわたしだ、と(誤解が生じると困るが、このとおりの文言を彼が書きのこしたという意味ではない)。
これは、彼の三回忌に刊行された記念文集──涙香会編『黒岩涙香』(一九二二)──の「序」にいちばん近い記述がある。
《先生は其生涯の殆んど総ての善き部分を萬朝報に捧げられた。萬朝報は即ち先生の化身である》。化身、分身。どう表わしても同じだ。萬朝報はわたしであり、わたしにぴったり重なる。余分も不足もない。
「序」は、またいう。《先生は恐らく自己の性格を後日真に書き表はし得る者なきを信ぜられた》と。──現世において理解され得ないことを彼は知悉していた。のみならず、後世においても、その非理解・曲解はつづく、と彼は諦観していたという。率直なところ、この予言は半分くらい当たっているようにも感じさせられる。
彼はたんなるジャーナリスト・論説家ではないし、たんなる翻訳探偵小説のパイオニアでもない。それらの混沌未分を一身に体した、マージナル(周縁的)な総合文筆家・総合芸術家だ。
涙香の生きた時代。それを要約すると──。
一八〇〇年における農業中心の、半集権的、貴族的な鎖国主義の日本は、一九〇〇年には疑いもなく産業化され、集権化され、平等主義的で、立憲主義的で膨張主義的な国家になっていた。(中略)
明治時代が二十世紀に遺したものは、調和という遺産ではなく、壮大な論争という遺産であった。(テツオ・ナジタ著、坂野潤治訳『明治維新の遺産』一九七九)
あまりに急激な西欧化・近代化が、一国のうちに、公正な調和ではなく、深刻な分裂をまき起こしたことは、避けられない混乱だった。
時代が彼を産みだし、そして、彼が時代を創った。
彼は歴史家のいう「壮大な論争という遺産」の一部、あるいは「論争そのもの」だった。
論争について、本書の考察の基本線を、ここで述べておく。二つある。
「国権vs民権」の論争。
「文学vs非文学」の論争。
明治期第一の啓蒙思想家福澤諭吉は『文明論之概略』(一八七五)において、明快に二つの方向を提示した。一は、国家の独立と文明化。二は、人民の智力育成。一が「国権」に属し、二が「民権」に属する。
「国権vs民権」という論争は、本書の進行において基底に沈んでいる。幾度も浮上して参照されるはずなので、最初に少し説明しておいたほうがいい。
「国権」と「民権」は『文明論之概略』のなかで、同等の重みを持つ。
『文明論之概略』刊行は、元号でいえば明治八年。植民地化を狙う大国列強に包囲される小後進国家は、いまだ内乱状態を脱けだせない不安定期にあった。そこに「人民」という不安定な語を投じた福澤の大胆さは、永く色褪せない。
「民権」に属する用語として、福澤は、人民という語を使用する。
すでに「緒言」に「人心の騒乱・世の紛擾は想像を絶するが、それは──」《全国の人民、文明に進まんとするの奮発なり》(強調は引用者)と、あらわれる。
「人民」という語は、『文明論之概略』のなかに頻出する。数えれば三百を超える。本文が文庫版で約三百頁だから、ページごとに一語といった割合で、この肝要な用語が眼につくわけだ。そこから深読みを試みるのは愚かのかぎりだが、明治初期の著書において、あえて「人民」の語を選んだ福澤の情念は、たんなる「国権vs民権」を併置するにとどまらない不確かな揺らぎをおびていた。繰り返し使うから、部分的には「人民」という語の力感において高揚してくる一行を見つけることも可能だ。
萬朝報の言論は、一貫して「民権」の側にあった。時代はしだいに「国権」の側にかたむいていくが、「民権」もまた変容を強いられる。単純な対立構図が無効になり、論争はさらに錯綜していくだろう。
萬朝報スキャンダルは、福澤の言葉を借りれば、「文明に進もうとする人民の奮闘」にほかならない。人民(人間)のいかがわしさも勇気も、正負おりまぜて混沌としてそこに在る。
萬朝報が追及したスキャンダルは、いわば「民権」の知る権利によって立つものだった。これに対して、「国権」による、国民の権利を奪うスキャンダルも存在した。後に詳しく述べるが、その最たるものが大逆事件である。この「国権」によるスキャンダルには涙香は沈黙するほかなかった。本書では、隠された秘密を暴く、人々に知らしめるスキャンダルを「光のスキャンダル」、国家による隠蔽というスキャンダルを「闇のスキャンダル」と呼び、後にあらためて論じる。
論争のもう一点は、「文学vs非文学」。非文学は、大衆小説、通俗小説などと置き換えられる。また第五章で考察される「限界芸術」も、その領域のうちにあるといえる。この構図は適宜、参照されてくる箇所で説明を付すほうがいいだろう。
涙香は、二つの論争の双方に、しかも深くかかわり、どちらにも重要なキーを与える存在だ。涙香以外にこれほど枢要な位置にいる者は、他に見当たらない。国権、民権、文学、非文学。そのそれぞれが涙香によって本質的な解釈に導かれる。これは、涙香のまったく独自なマージナル性をあらわしている。どこにも属さないのだ。
従来の諸説においては、涙香は「スキャンダル報道の先駆者」とか「探偵小説の元祖」とかの称号を与えられる。それぞれ細切れの限られた観点からそう呼ばれる。
そろそろ涙香のマージナル性に正面から対峙する論考が現われてもいいのではないか。
本書の見取り図
本書の基本的な見取り図は、五章構成になっている。
第一章は、萬朝報の最初のオモテ看板であるスキャンダル報道の軌跡を追う。『蓄妾の実例』において頂点をつくる反権力スキャンダル。そこに露出する「壮大な論争」とは何だったのか。
第二章は、萬朝報十番勝負。同時代の、他のメディア人、ジャーナリスト、文芸家との対比によって、涙香の多面的な像に迫る。
第三章は、つづいて後代の言論人との対比におよび、涙香の先駆性がどう継承され、どう変質をこうむっていったかを検証する。
第四章は、萬朝報悪党伝。マムシを支えた一家二十一人衆の列伝となる。
以上の章で明らかになるのは、意外な人物との意外な「関係性」である。涙香を「中心」とした直線が発見され、それが涙香のマージナル性をさらに際立たせる。「中心」は必ずしも中心でなく、直線は点線であったり曲線であったりする。
第五章は、涙香翻訳小説・探偵小説への考察を一括する。彼の名を不朽にする探偵小説・冒険小説・怪奇小説・家庭小説・ロマンス・SFの翻訳は厖大に遺されている。先行する研究を参照しつつ、系統的な流れを取りだした。一般的な意味での作家論に近い記述になっている。しかし涙香は、そうした一般論では捕捉しがたい「作家」だ。
涙香は自作(翻訳小説)を、おしなべて「記事」と称し、いわゆる「作品」とは区別した。自らの作品は、「萬朝報はわたしだ」というメディアによる制作物であり、単独の作者による「作品」ではない、と涙香は宣言した。涙香の仕掛けた「論争」の意味が、同時代の論者たちに正当に理解されたとはとても想えない(彼自身も猪突猛進、自省に立ち止まることはなかった)。この無理解・非理解は、今もつづく。
涙香の「論争」を受けとめるためには、「記事」を「作品」として読む、といった裏返しの方法を採る必要がある。裏返せば、文学の意味も非文学の意味も揺らぎ、融ける。既成の境界線は何の役にも立たない。この男に照準を合わせると、視野をめいっぱい拡げ、重心を低く、足腰を据えねばならない。
ラストは涙香=萬朝報のベスト作『蓄妾の実例』の読解にあてられる。萬朝報の最も騒々しい話題となる連載記事がなぜ彼の最高の「作品」になるのか──。マージナルな直線が、ここに完結をみる。
本書は、月並みな規格の書物ではない。心せよ親愛なる読者諸君(この一行は涙香節の真似だ)。
黒岩涙香いずこへ。何を背負い、何をとり落としたのか。
草を枕にほゝえむ屍
誰の夢路に通ふやら
──これが涙香辞世の都々逸。
死んだ後「誰の夢路に通う」というのか。
「序章 萬朝報はわたしだ」より






