祖父から受け継いだ花丘洋菓子店を切り盛りする春だが、激務がたたって体を壊してしまう。そんなところへ現れたのが、かつて共に修業をした有沢壱悟。顔立ちのよく似た少女を連れているのだが――。

『ホテルクラシカル猫番館』著者の小湊悠貴さんが、文春文庫に初登場!

刊行を記念して、〈一品目 バタークリームの花が咲く〉冒頭部分を特別に公開します。


 洋菓子―――

 それは人の手から生み出される、甘い夢の結晶だ。

「おじいちゃん、こんにちはー!」

はるちゃんか。いらっしゃい」

 鼻腔びこうをくすぐるのは、バターがたっぷり入った焼き菓子の香り。

 みがき込まれたショーケースの中には、さまざまな種類のケーキが並んでいる。

 きつね色に焼き上げたスポンジ生地に、真っ白な生クリームと、みずみずしいいちごを飾りつけたショートケーキ。粉雪のような粉糖をかけた、優雅な見た目のスワンシュー。ずっしりしていて濃厚なガトーショコラは、ほんのりビターな大人の味だ。

 キウイにオレンジ、ブルーベリーに真っ赤な苺。色とりどりの果物を贅沢ぜいたくに盛り合わせたフルーツタルトが、つややかな宝石のようにきらめいている。なめらかで口どけのいいバタークリームを使ったケーキのデコレーションは、昭和を感じるレトロな仕上がり。チーズケーキやミルフィーユ、モンブランにも心かれる。

「よし、決めた。わたしも大きくなったらケーキ屋さんになる!」

 幼い春が宣言すると、嬉しそうに笑った祖父が言う。

「じゃあ将来は洋菓子職人パティシエールになって、この店を継いでくれるかな?」

「うん、継ぐよ! わたし、おじいちゃんがつくるケーキがいちばん好き」

「楽しみだなあ。春ちゃんになら安心してまかせられるよ」

 

 

 祖父の優しい笑顔も、無邪気な未来の約束も、すべては遠い昔の話。

「キャー! 店長!」

はなおかさん!」

「えっ、店長さんが倒れた!? 救急車、救急車!」

 ――あれから長い時が過ぎ、夢をかなえることはできたけれど。

「大丈夫ですか!? しっかり!」

 体が重くて、指一本動かせない。もしやこのまま死んでしまうのだろうか?

 薄れゆく意識の片隅に、いまは亡き祖父の顔が浮かんだ。託された大事な店も守れない、こんな自分が後継者だなんて。

(ごめんなさい、おじいちゃん……)

 遠くにサイレンの音を聞きながら、春はゆっくりとまぶたを閉じた。

 

 

 

1

「お姉ちゃん、着いたよ。ほら起きて」

 タクシーの後部座席でまどろんでいた花丘春は、肩を軽く揺すられて目を開けた。ゆるゆると顔を上げると、隣に座っていた妹のなつと目が合う。

「あれ? わたし寝てた?」

「うん。ぐうぐうイビキかいてね」

「イビキ!? やだ、ほんとに?」

「あはは、うそうそ。でも気持ちよさそうだったよ」

 そう言って笑った夏希は、春のキャリーバッグを手にして車を降りた。

 夏希が呼んでくれたタクシーに乗り、病院を出たところまでは憶えている。それ以降はうたた寝をしていたようだ。ちらりと外に目をやると、そこには十八歳のころから住み続けている建物――元町ビルがあった。

「お客さん、お支払いを」

「あ、すみません。おいくらですか?」

 春はバッグの中から財布を取り出し、クレジットカードを引き抜いた。

 数日前に救急搬送された病院は、ここから少し距離があった。入院費に検査代、そしてここまでのタクシー料金。どれも思わぬ出費だったがやむを得ない。退院したばかりだし、電車やバスに乗れるほどの体力もまだないのだ。

「ありがとうございました」

 支払いを済ませて外に出ると、てつくような冷気が肌を刺す。

「寒っ! 雪でも降るんじゃないのこれ」

「今日は一段と冷えるよねえ」

 春だけではなく、先に降りた夏希も白い息を吐いている。

「私が運転できたら、タクシー代はかからなかったのにね。やっぱり学生のうちに免許取っておくべきだったなあ」

「ひとりで帰るのは不安だったし、わざわざ迎えに来てくれただけで大助かりよ」

 三十四歳で未婚の春に対して、ふたつ年下の夏希は結婚している。加えて五歳になる男の子の母でもあった。東京在住の夏希は、春が過労で倒れたことを知らされると、会社を早退して横浜の病院まで駆けつけてくれた。さらには入院の手続きを行い、必要な荷物もまとめて持ってきてくれたのだ。

 日本有数の国際貿易港をようする大都市、横浜―――

 幕末に開港し、西洋文化を柔軟じゅうなんに取り入れた、エネルギッシュな国際都市だ。

 気持ちのよい海風が吹き抜ける山下公園に、国内最大の規模を誇る中華街。そしてかつては外国人居留地として栄えた、小高い丘の上に広がる山手地区。横浜観光のかなめでもあるベイエリアには、見逃せない名所が目白押しだ。

 山手につながる坂の下に位置する元町商店街は、外国人御用達の洗練された店が集まり、華やかに発展した。レンガ調の外壁が目を引く四階建ての神志名ビルは、そんな元町のメインストリートから少しはずれた路地の一角に建っている。

 一階と二階には店舗が入り、三階と四階は住居として貸し出されている。二階の純喫茶は今日も営業しているが、一階のシャッターは閉まっていた。軒下のきしたには日除ひよけと雨避けを兼ねた赤いテントが設置されており、白文字で店名が入っている。

『花丘洋菓子店』

 その店名を見たとたん、胸の奥がずきりと痛んだ。

 シャッターに貼りつけられた紙には、『誠に勝手ながら、店主急病のためしばらく休業いたします』と書いてある。再開は店主、つまり春の体調次第だ。

 休業してからもう五日。今日は退院したばかりだし、明日も店は開けられない。

 明後日はどうだろう。できれば一日でもはやく再開したいけれど……。

「入院の荷物を取りに来たときも思ったけど、このビルも年季が入っているよね」

「メンテナンスはちゃんとしてるよ。オーナーのご厚意で家賃も安いし」

「たしかに元町であの家賃は破格だわ。うちも賃貸だけど、高い高い。かといって分譲なんて手が出せなくて」

「都内のマンション、値上がりしすぎ。二十三区は特にそうじゃない?」

「こんなことなら、結婚したときに思いきって買っておけばよかったわー」

 世知辛せちがらい話をしながら、春と夏希は狭いエレベーターで三階に上がった。小さなビルなので、住居は各階に一室ずつしかない。

「ただいまー。やっぱり我が家が一番だわ」

 玄関のドアを開けた春は、五日ぶりに家の中に入った。

 間取りは古いマンションなどによくある3DK。キッチン兼ダイニングは六畳しかないため、隣の洋室にふたり掛けのソファを置き、リビングとして使っている。

「お姉ちゃーん、キャリー、玄関に置いとくよ」

「ありがとう。夏希も上がって。いまお茶れるから」

 ひとり暮らしにしては広すぎる家には、もともと祖父母が住んでいた。春は洋菓子職人だった祖父に弟子入りするため実家を出て、ここに間借りさせてもらったのだ。祖父母はすでに亡くなっているので、いまは自分名義で借りている。

「仏壇って和室にあったよね。お線香あげていい?」

「もちろんよ。おじいちゃんたちもよろこぶと思う」

 コンロの前に立った春は、お茶を淹れるためにお湯をかしはじめる。

 祖父母とこのビルのオーナー夫妻は、長年の親しい友人同士だった。その縁で祖父から受け継いだ店の上にあるこの家を、優先的に借りることができている。春は早朝から働いているため、職場は近ければ近いほどありがたい。

 夏希が戻ってくると、春は紅茶のカップをテーブルに置いた。

「散らかっててごめんね。ちょっとその、掃除する暇もなかったというか」

「ちょっとどころじゃないでしょう。過労で倒れたくらいなんだから」

 ダイニングチェアに腰を下ろした夏希が、向かいに座った春をじろりと見る。

「連絡が来たときは、ほんとにびっくりしたんだからね」

「う……そうよね。いきなりだったし」

「オーナーさんから聞いたよ。雇っていたパティシエの人が急に辞めたから、しばらくひとりでケーキをつくってたんでしょ? 定休日も出勤して、厨房ちゅうぼうでいろいろやっていたみたいだって。休みもせずにそんなことしてたら、そりゃ過労にもなるわ」

「返す言葉もございません」

 もっともな指摘に、春は気まずい思いでうなだれた。

 春が横浜にやって来たのは、高校を卒業した直後のこと。母は大学に行ってほしかったようだが、それよりも製菓の勉強がしたかった。

 まずは専門学校に通い、洋菓子作りの基礎的な知識や技術を身につけたほうがいい。そんな祖父の意向に従って、春は都内の製菓専門学校で学ぶかたわら、花丘洋菓子店で製造の助手や販売のアルバイトをしていた。卒業後は晴れて正式な弟子となり、もうひとりの弟子とともに、製菓技術を磨きながら働いていたのだ。

(いまから思えば、あのころが一番幸せだった)

 二度と戻らない日々を思い出し、春の心に虚無感が広がっていく。

 あのころ自分のそばにいた人々は、もう誰もいない。一緒に修業していたもうひとりの弟子は、何年も前にフランスに渡った。販売と事務を担当していた祖母は五年前に他界し、師である祖父も二年前にこの世を去った。春は亡き祖父の後を継いで二代目の店主となり、花丘洋菓子店の看板を背負うことになったのだ。

 新しい職人と販売員を雇い、なんとか切り盛りしてきたものの、パティシエの退職で均衡きんこうが崩れた。小さな個人店といっても、職人は最低でもふたりは必要だ。代わりの職人が見つかるまでの辛抱だと、売れ筋にしぼって営業を続けてきたが、条件に合う人は見つからないまま疲労が積み重なっていった。

 まだ大丈夫。まだ頑張れる。まだ―――

 そう言い聞かせていたけれど、結局は激務がたたって体を壊してしまった。

(しかも、よりによってこんなときに)

 春はひざの上に置いた両手を、ぎゅっと握りしめた。

 一年でもっともケーキが売れるのは、十二月。もちろんクリスマスがあるからだ。

 まだ十二月になったばかりだが、ケーキの予約は先月からはじまっている。長年の常連客からも、すでに何件かの予約が入っていた。この稼ぎ時をのがしてしまうと、ただでさえ赤字に近い経営が、ますます厳しくなってしまう。

 祖父母がこの地に店を開いてから、もうすぐ丸五十年。

 先代から託された大事な店を、自分の代でつぶしてしまうわけにはいかない。それなのに、まともに体調管理もできない、自分の不甲斐ふがいなさが情けなかった。こんなに頼りない二代目で、祖父母もさぞや落胆していることだろう。

「お姉ちゃんの気持ちはわかるけど、あんまり思い詰めないでね」

 自責の念にとらわれていた春は、夏希の言葉に顔を上げる。

「とにかくいまは、体調を戻すことに専念してよ。お店を再開させるのは、新しい人が決まってから! お姉ちゃん、子どものころから限界まで突っ走る癖があるんだから気をつけなきゃ。体力も落ちてるし、いつまでも若いつもりでいたらだめよ」

「何気にグサッとくることを。でも十二月は稼ぎ時……」

「また倒れたらどうするの!?」

「わ、わかった。もうしばらくは休むから」

 夏希の迫力に恐れをなして、春はあわててうなずいた。

「ところで、ほんとにお母さんたちには言わないつもり?」

「入院したこと? うん、念のために精密検査もしたけど、特に悪いところはなかったからね。だったらわざわざ伝えることもないでしょ。余計な心配かけて、横浜まで出て来てもらうのも悪いし」

 春たちの両親は、長野県松本市で小さな漬物屋をいとなんでいる。祖父の息子である父は、洋菓子職人の道には進まず、のちに結婚した母の実家の商売を引き継いだ。

 家業を継げと言われたことはなかったが、春が花丘洋菓子店の二代目になると伝えたときは、苦労するからやめなさいと反対された。商売の厳しさを、身をもって知っているからこその言葉だ。それゆえに、働きすぎて倒れたなんて知られたくなかった。還暦を過ぎた両親に、気をませるようなことはしたくない。

「そうだけど、やっぱり――」

 夏希が言いかけたとき、テーブルの上に置いてあるスマホが鳴り響く。はっとして視線を落としたが、鳴ったのは春のそれではなかった。メッセージが届いたらしく、目を通した夏希が「えっ」と声をあげて立ち上がる。

「どうしたの?」

「たぁくんが熱出しちゃったって」

 春の退院に付き添うため、夏希は有休を取っていた。子どもは保育園ではなく、近くに住む義母にあずけてきたそうだが……。

「私のこと呼んでるみたい。ごめん、心配だから帰るね」

 そう言った夏希の顔は、すっかり母親のそれになっていた。急いで帰り支度を済ませた妹を、玄関で見送る。

「今日は来てくれて助かったわ。たぁくん、お大事に」

「熱はそんなに高くないらしいけどね。近いうちにあの子も連れて遊びに来るよ」

「ぜひ来て。一年半くらい会ってないでしょ。大きくなっただろうなあ」

「もうやんちゃで大変よ。次に会うときまでには元気になって、おいしいケーキをごちそうしてよね。あの子、チョコのケーキが大好きだから」

 にっこり笑った夏希は、「家についたら連絡する」と言って帰っていった。五分も歩けば元町・中華街駅に着くので、そこからみなとみらい線に乗るのだろう。

 自分の家庭があるにもかかわらず、妹は「こういうときこそ助け合わなきゃ」と、嫌な顔ひとつせずに世話を焼いてくれた。いろいろと迷惑をかけてしまったし、次に遊びに来るときは、特製のチョコレートケーキでもてなそう。

「おいしいケーキ、か……」

 ケーキは甘いものなのに、そのつぶやきはなぜか苦く感じた。

 

2

 

 二日後。春の姿は自宅ではなく、花丘洋菓子店の厨房にあった。

 売り場の奥にある厨房は、洋菓子づくりに必要な設備や道具がそろっている。

 平窯ひらがまとも呼ばれるデッキオーブンに、熱風を対流させて焼き上げるコンベクションオーブン。業務用の冷凍冷蔵庫に、さまざまな種類の生地やクリームづくりに役立つ縦型ミキサー。そして折り込み生地をつくるときに便利なパイシーター。どれも古びているけれど、大事に使っているものたちだ。

 作業台の上に置いてあるのは、薄力粉に砂糖、卵やバターなどの食材と調理器具。休業中は仕入れをストップしているため、近所のスーパーで購入した。分量はホールケーキが一台つくれる程度だ。売るためのものではないので、原価にはこだわらない。

 洋菓子職人として働きはじめて十数年。一週間近くもケーキをつくらなかったのは、はじめてのことだ。昨日はゆっくり休めたし、体の調子も上向いてきた。今日は腕ならしにケーキを焼いて、感覚を取り戻そう。

 仕事ではないから、いつものコックコートは着ていない。春の服装はⅤネックのセーターにジーンズで、家から持ってきたエプロンをつけている。セミロングの髪はひとつにまとめ、バンダナを巻きつけた。

(髪、伸びたなぁ……。美容室ってどれくらい行ってないんだっけ)

 ぼんやり考えながら手を洗った春は、さっそく作業に取りかかった。

 まずはスポンジケーキの生地づくりから。春はハンドミキサーで卵をほぐし、砂糖を加えてしっかり泡立てていった。卵黄と卵白を別々に泡立てる方法もあるのだが、今回はパータ・ジェノワーズとも呼ばれている共立ともだてだ。湯煎ゆせんにかけてあたためるのは、気泡をつくりやすくするため。この気泡が生地のふくらみ方に大きく影響してくる。

 泡の量が不足していると、焼いたときに均一の高さにならない。かといって泡立てすぎると、今度はきめが粗くなってしまう。そこを見極めてこその職人だ。気泡をたくさん含ませて、ほどよい弾力を生み出すことができれば、生地はきれいにふくらんでくれる。毎日ケーキをつくっていれば、その加減も自然とわかるようになるのだ。

 卵と砂糖が泡立ったら、薄力粉を混ぜ合わせた。湯煎で溶かしたバターも加え、泡をつぶさないよう気をつけながら混ぜていく。できあがった生地は丸い型に流し入れ、予熱しておいたオーブンにセットした。

「んー、いい匂い」

 しばらくすると、厨房はケーキが焼ける甘い香りで満たされた。

 三十分ほどで焼き上がり、オーブンの扉を開ける。中に閉じ込められていた熱気とともに、風味豊かなバターの香りが広がった。

(よかった。きれいに焼けてる)

 焼きたてのスポンジケーキを確認して、春はほっと息をついた。

 表面はムラのないきつね色。指先で軽く押すと、弾力も感じられた。

 型からはずしてよく冷ましたスポンジケーキは、水平にスライスしてから、泡立てた生クリームと苺を挟み込んだ。表面にも生クリームを広げ、パレットナイフと回転台を使ってきれいに塗っていく。絞り袋で生クリームのデコレーションも行って、仕上げに形のいい苺を飾れば、王道ショートケーキの完成だ。定番中の定番だけあって、花丘洋菓子店でも人気が高く、一定の売り上げを維持している。

「あとはきれいにカットして……」

 春はケーキを八等分に切り分けると、ひと切れを味見した。

 いつもの材料ではないから味は違っていたものの、これはこれで悪くない。スポンジ生地はきめ細やかでしっとりしているし、生クリームのかたさもちょうどよかった。見た目も味も、商品としてじゅうぶん通用する――のだが。

(たしかにおいしいんだけど、それだけって感じ)

 満足のいくケーキができても、以前のように心がおどることはない。

 自分の中の異変に気がついたのは、祖父が亡くなり、仕事に追われるようになってからだった。それまではケーキをつくることが楽しくてしかたがなかったし、洋菓子づくりに並々ならぬ情熱をそそいでいた。アイデアもあふれ出てきて、どうすればもっとお客によろこんでもらえるか、あれこれ考えることもできたのに。

 数日ぶりに厨房に立つことで、少しは新鮮な気持ちになるかもしれない。

 そんな期待を抱いたものの―――

(やっぱり気分は上がらないか)

 ガラス製のドームカバーをケーキにかぶせ、春は大きなため息をついた。

 あのころの情熱と高揚感は、いったいどこに行ってしまったのだろう。幸い品質は保たれていたが、いまの自分は手順通りに、機械的に動いているだけ。そんな自分がもどかしく、このまま店を再開させてもいいのかと考えてしまう。生活するためだからと割り切ってしまえば、少しは楽になるのかもしれないけれど……。

「それができたら苦労しないわ」

 考えれば考えるほど、気持ちは沈んでいくばかり。自分はここまでネガティブではなかったはずなのに。やはり体調を崩したことで、メンタルが落ちているのだろうか。入院したのもはじめてだったし、気弱になっているのかもしれない。

(それはそうと、このケーキはどうしよう)

 ひとりでは完食できないし、せっかくつくったのだから、誰かに食べてもらいたい。

 二階で喫茶店を営むマスターは、花丘洋菓子店のケーキが好物だ。あの店には何種類かの商品をおろしているのだが、現在はこちらの都合でストップしている。そのお詫びと退院の挨拶を兼ねて、差し入れするのもいいだろう。

「あとは……神志名のおばさまとか?」

 このビルのオーナーである神志名夫人は、丘の上の山手に居を構えている。レンガ造りのクラシカルな洋館ホテルの近くに位置する邸宅だ。ここからだと代官坂か汐汲しおくみ坂をのぼっていかなければならないが、原付ならあっという間だ。

「あ……しまった」

 夫人に連絡しようにも、スマホがない。自宅に置いたままだった。

 とりあえず、いったん家に戻ろう。春はケーキを冷蔵庫に入れてから、裏口のドアを開けた。エレベーターは表側にあるので、そちらに向かう。

「――っと」

 通りに出た春は、前方に人影を見つけて足を止めた。シャッターの前に、背の高い男性が立っている。くたびれたモッズコートに、黒いジーンズという格好の男性は、こちらを見るなり大きく目を見開いた。

「春さん!」

「え?」

 いきなり下の名前を呼ばれ、ぎょっとして身構える。けれども相手は気にする様子もなく、親しげに話しかけてきた。

「花丘春さんですよね? 俺、ありさわです。前にこの店で働いていた」

「有沢って……あっ、いちくん!?」

「そうですよ。ストロベリーじゃありません」

 口角を上げた壱悟が、いたずらっぽく答える。

 ストロベリー。その言葉で、はじめて会ったときの記憶がよみがえった。

 春が「苺?」と首をかしげると、壱悟は気を悪くすることもなく、笑いながらいまと同じような答えを返したのだ。もう十年以上も前になる。

「六年……いや、七年ぶりになるのかな。ご無沙汰しています」

 軽く頭を下げた壱悟は、祖父が迎えたもうひとりの弟子だった。

 年齢は春より三つ下。春は三年制の専門学校、壱悟は高校、それぞれ卒業してすぐ弟子入りしたので、同じ時期になったのだ。修業をはじめてから数年後、壱悟は本人の希望でフランスに渡ったが、いつしか連絡が途切れて足取りもつかめなくなっていた。もう会うこともないのだろうとあきらめていただけに、驚きを隠せない。

 また会えたことに感激しながら、春は笑顔で話しかけた。

「壱悟くん、帰国してたのね。元気そうでよかったわ」

「春さんもあいかわらずおきれいですね」

「はいはい、お世辞も上手ね。壱悟くんは髪が伸びて、印象が違う感じ」

「あー、たしかに昔はもっと短かったな。前髪もなかったし」

 うなずいた壱悟が、自身の前髪をつまんで言った。癖毛くせげだから手入れが面倒だという理由で、修業時代はひたいがあらわになるほど短くしていたのだ。外見の印象は変わっていたが、本人を取り巻く飄々ひょうひょうとした雰囲気は昔のままだ。

「春さんは昔とほとんど変わりませんね。すぐにわかった」

「また口のうまいことを。自分で言うのもなんだけど、二十代のころとは――」

 苦笑しながら言いかけたときだった。壱悟の背中からのぞき込むようにして、小さな顔がひょっこりとあらわれる。

 ――子ども?

 春と目が合ったのは、幼い女の子だった。おいっ子と同じくらいに見えるから、五歳前後だろうか。やわらかそうな癖毛が印象的なその子は、うさぎの形をしたポシェットを斜め掛けにして、片方の手で壱悟のコートのすそをつかんでいる。

(もしかして、壱悟くんの子ども……?)