「お前に介添えしてもらえて嬉しかったよ」母が遺した言葉を糧に、17歳のお海は依頼された介添えの仕事を引き受ける決意をする。初めてお世話をしたのは、物忘れが進んだ、老舗の金物問屋の大内儀・サチ。お海は様々な知恵を絞りながら、サチの気持ちと体に向き合う。やがてその回復ぶりが評判をよび、新たな依頼もくるようになる――。
刊行を記念して、第三章「蒲公英と母の思い」冒頭を、特別公開します。
第三章 蒲公英と母の思い
一
お海が竹原診療所を訪ねると、お常が迎えてくれた。
「あらあら、早速来てくれたね。ありがとう」
お海は肩を竦めた。
「お忙しい刻に来てしまって、ごめんなさい」
「謝らないでよ。こちらからお願いしたんだからさ。どうぞ上がって」
「お邪魔します」
一礼し、お海は中へと入った。
居間に通されると、お常がすぐにお茶と練り菓子を運んできた。桜を象った薄紅色の練り菓子に、お海の顔はほころぶ。お常が言った。
「ちょっと待っててね。先生、すぐに来ると思うから」
お海は再び恐縮した。
「診療所が仕舞ってからのほうがよかったですね。先生のお話が気になって、急いで来てしまいました」
「気にしないで」
お常が下がると、お海は居間を眺めて息をついた。広くはないが、綺麗に片づけられている。お海は、竹原診療所に来る度に思う。手当てをする時、毒を消すために焼酎を使うせいか、独特な匂いが漂っていると。
──お酒臭いというよりは、清らかな匂いなのよね。吸い込むと、胸がすっとするような。
お海は、診療所に漂う匂いを嗅ぐと、心が落ち着くのだ。練り菓子を少しずつ味わいながら、どうしてなのだろうと思いを巡らせていると、新山が現われた。
「呼び出してすまない。来てくれて礼を言うぞ」
腰を下ろし、お常が出したお茶を啜ると、切り出した。
「急な話で悪いが、介添えの仕事を引き受けてもらえないだろうか」
お海は目を丸くした。まさか新山からも仕事の依頼があるとは。
背筋を伸ばし、お海は答えた。
「どのような方のお世話をするのでしょう」
「二月前に赤子を産んだ、お冬さんという女人だ。齢三十三で初産、おまけに難産だったので、堪えたのだろう。産後の肥立ちが悪く、臥せってしまっている」
お海は眉根を寄せた。
「気懸かりですね。赤ちゃんは元気なのでしょうか」
「赤子のほうは健やかだ。だが、お冬さんのお乳が出ないため、困っている。貰い乳に頼っているようだが、どうも量が足りないらしい」
貰い乳とは、伝手を頼って、お乳が出る女人に飲ませてもらうことだ。お海は唇をそっと噛んだ。
「赤ちゃん……お腹が空くでしょうに」
「うむ。足りない時には、米を擂り潰して粉にしたものを湯に溶かして、あげているようだ。だがそれでは、足りんだろう。なんとしてもお冬さんの具合をよくしたいところだ」
お海はうつむいた。赤子が今は健やかであっても、滋養が足りなければ徐々に衰弱していくこともあり得る。お冬と赤子の力になりたいという思いが、込み上げる。
顔を上げ、お海ははっきりと言った。
「お力添えさせていただきます」
新山は笑みを浮かべ、頷いた。
「ありがたい。お海は本当に頼もしい。佐助の介添えが一段落したところなのに、頼んでしまって悪いな」
お海は首を横に振った。
「お仕事させてもらえて、こちらこそありがたいです。精一杯、務めます」
「無理はしないでくれ。と言いつつ、早速、明後日からお願いしたいのだが」
頭を掻く新山に、お海は微笑んだ。
「はい。お冬さんのお家はどちらなのでしょう」
「天王町だ。表通りに面した、なかなか広い家に住んでいる」
天王町は鳥越橋の近くにあり、お海が住む福井町とさほど離れていない。お海は首を傾げた。
「女中さんはいらっしゃらないのですか」
「キヨさんという女中がいるのだが、背骨を痛めて動けなくなってしまったんだ。それで力添えが必要なんだよ。キヨさんは、今、ここに留まって治療を受けている。仕事に戻れるまで、一月はかかるだろう。その間、介添えを務めてほしいのだ。もちろん途中で、お冬さんがすっかりよくなったら、やめてもらって構わないが」
竹原診療所には養生部屋もあるので、キヨはそこで休んでいるようだ。お海はまた訊ねた。
「お冬さんは、ご家族と一緒に住んでいらっしゃるのですよね」
「ここ数日は、本人と赤子だけで暮らしている。今は、お常が朝昼夕と様子を見にいって、キヨさんの代わりに世話をしているんだ」
お常は、お冬の家と診療所を、こまめに往復しているようだ。新山は言葉を続けた。
「お冬さんには、家族はほかにはいないようだ」
「え……ご主人は」
言いかけて、お海は口を噤んだ。なかなかの広さの家に、女中つきで、赤子と二人で暮らす女。大人の事情が透けて見えるように思えた。
お海が微妙な面持ちになったからだろう、新山は苦笑した。
「まあ、そういうことだ。わけがあって、旦那とは一緒に住めぬのだろう。介添えのお礼は、旦那がきっちり出してくれるようだ。薬礼もな」
男と女の事情に疎いお海でも、薄々分かった。お冬は、裕福な男の妾なのだろう。
お海は姿勢を正した。
「諸々、かしこまりました。明後日から、お冬さんのお世話をさせていただきます」
「うむ。実は、お冬さんは私が診ているのだ。だからお海に介添えを引き受けてもらって、ありがたい。私の仕事を手伝ってもらうことにもなるからな。よろしく頼む」
新山に頭を下げられ、お海は慌てて礼を返した。
「はい。……あ、でも、本当に明後日からでよいのですか? 明日から始めても、私は構いませんが」
新山はゆっくりと首を横に振った。
「佐助の介添えは、ほとんど休みがなかっただろう。少しは羽を伸ばすことも大切だ。今日も呼び出してしまって、すまなかった。家に帰ったら、休んでほしい」
お海は微笑んだ。
「私、丈夫なので、平気です。疲れても、ハト麦を煎じて飲めば、すぐに治りますから」
新山は腕を組み、お海を眺めた。
「そういえば佐助の捻挫を、石蕗の葉で癒したと言っていたな。民間薬というのも、侮れないものだ。いろいろ教えてほしい」
「先生に教えるなんて……烏滸がましいです。私が知っているのは、すべておっ母さんから聞いたことぐらいですもの。医術などではなくて、言い伝えのようなものですから」
肩を竦めるお海を、新山は眺めた。
「民から民へ言い伝えられたもののほうが、効くということもあるのではないかな。高い薬をいくら飲んでも、効かぬ者もいる」
「結局、その人の躰に合ったものがよいということですね」
「うむ。さすがはお海。分かっているではないか」
二人は微笑み合う。お海は少し考え、口を開いた。
「あの。助っ人を連れていってもよいでしょうか」
「助っ人?」
「はい。私は、子供を産んだことがありません。弟や妹もいなかったので、私一人で、お冬さんと赤ちゃん両方のお世話ができるか、今一つ自信がなくて。長屋のおかみさんで、赤ちゃんを産んで育てたことがある人に手伝ってほしいと思ったのです。お給金はその人と半分ずつにしますので、ご承知いただけませんか」
新山は再び腕を組んだ。
「給金のことまでは考えなくてよい。先方に話しておくのでな。気づかなくて悪かった。確かに、助っ人が必要になるだろう。連れてきてくれて、もちろん構わない」
お海は胸を押さえた。
「ありがとうございます。長屋のおかみさんに相談してみますね。もし、皆から断られてしまったら、私一人で務めます」
新山は眉を掻いた。
「いや、無理することはない。その場合は、お常も向かわせるのでな。まあ、診療所の仕事もあるから、付き添うことはできないが、助けにはなるだろう」
「はい。いざという時には、よろしくお願いします」
お海は一礼した。
新山は仕事中なので、お海は長居せずに、竹原診療所を後にした。
明後日の朝、新山と一緒に、お冬の家へ向かうことを約束して。
二
鈴なり長屋に戻ると、お海は途中で買った大福を手に、トキを訪ねた。
腰高障子越しに声をかけると、トキはすぐに開けてくれた。お海は大福の包みを差し出した。
「お土産。大福、好きでしょ?」
トキは大きく瞬きをした。
「そりゃ好きだけどさ。どこかへ出かけてきたのかい」
「うん。新山先生のところへ、ちょっと」
お海が答えると、トキは眉根を寄せた。
「具合が悪いのかい? 仕事の疲れが出た?」
お海は首を横に振った。
「見てのとおり元気よ。先生からお話があると言われて、行ってきたの。……それで、トキさんに相談したいんだけれど、今、少しいいかしら?」
七つ(午後四時)過ぎ、夕餉の支度にはまだ早い、一休みできる刻だ。トキは快くお海を家に上げた。
トキは、お持たせでは失礼だからと、煎餅を出してくれた。胡麻煎餅は、お海の大好物だ。向かい合って座り、ともに音を立てて煎餅を齧り、お茶を啜った。
「で、何だい。相談って?」
トキに訊ねられ、お海は背筋を伸ばした。
「トキさんに是非、介添えのお仕事の助っ人をしてもらいたいの」
トキは煎餅を手にしたまま、目を見開いた。
お海は、新山と話したことを伝えた。高齢で初産をした女人が、産後の具合が悪く臥せってしまって、介添えを必要としていると。
トキは真剣な面持ちで話を聞き、少し考え、答えた。
「私でよければ、力になるよ。おっ母さんと赤ちゃんの二人を同時に世話するのは、お海ちゃんだけでは無理だものね」
お海は顔の前で手を合わせた。
「さすがトキさん。ありがとう。トキさんに力添えしてもらえたら、心強いわ」
トキは肩を竦めた。
「まあ、私は、介添えの心得なんてちっともないけどさ。子供は三人育てたから、少しはお役に立てるだろうよ」
「心得は私もないわ。でも経験だけで、どうにかお仕事できている。経験に勝ることって、ないんじゃないかな」
お海が微笑むと、トキもつられて笑った。
「じゃあ私も大丈夫そうだ。先輩、よろしくお願いね」
お海は一瞬きょとんとして、自分を指差した。
「先輩って、私のこと?」
「ほかに誰がいるんだい。お海ちゃんは私の、介添えの先輩、ってことさ」
「そんな。トキさんこそ、私の人生の先輩よ」
トキはお海の肩を叩いた。
「先輩を譲り合うこともないさ。で、私に頼むために、大福を買ってきてくれたんだね。納得したよ」
「そのとおり。お土産を持ってきた甲斐があったわ」
お海が答えると、トキは頬を膨らませた。
「私、別に大福につられて引き受けたわけではないからね!」
「もちろん、分かっているわ。私だってお煎餅につられて、お仕事を引き受けたりしないもの」
二人は顔を見合わせ、笑う。トキと音を立てて齧る胡麻煎餅は、本当に美味しかった。
それからお海は湯屋へ行き、帰ってきてから夕餉の支度を始めた。近頃凝っているお菜は、茶殻の胡麻和えだ。お茶を三煎淹れた後の、茶殻を使って作る。
茶殻に鰹節と胡麻を混ぜて、醤油を少し加えればよい。シラスを入れても美味しい。
玄米ご飯、豆腐の味噌汁に、茶殻の胡麻和えがあれば充分だが、滋養を摂るために、蛸と若布の酢の物も作る。介添えの仕事をするには、しっかり食べて体力をつけることが必要だ。
仏壇にお供えしてから、お海はゆっくりと夕餉を味わった。
──茶殻の胡麻和えって、青菜のお浸しと変わらないわ。やっぱり美味しい。
ご飯に載せて頬張りながら、笑みがこぼれる。飲んでよし、食べてもよし、節約にまで貢献してくれる、お茶の偉大さを思い知る。
明日は久しぶりの休みだが、何をするか、お海は決めていた。
片づけを終えると、早々に布団に潜り込んだ。トキに助太刀してもらえることになり、お海は安心してよく眠った。





