ちなみに、私が入院したのは浅草寺病院ではありません。家族の負担を考えて、家から遠くない病院を選びましたが、それでも、“この病院ならば、ま、死んでもしかたないか”と思える病院ではあったと思います。
無事、死ぬことなく退院し、たまたま話の流れで友人にそのことを言うと、怪訝(けげん)な顔をされました。私には当然の物差しも、彼にはそうではなかったようです。
「浅草寺病院を見ただけで、そこまで考えないだろう、ふつう」
ま、そのとおりかもしれません。私は人よりも多めに、空間に感応するのかもしれません。もしも、そうだとしたら、その理由として、思い当たることがひとつあります。
私は物心ついてから小学校の二年まで、きわめて特異な、いったい、いま生きている方で何人の方が同じ経験をしているのだろうと、首をかしげるような空間で育ちました。
遊郭、です。岡場所の娼館とかいうのではなく、公許された本物の遊郭です。
元はと言えば、東海道保土ヶ谷宿にあった飯盛旅籠(めしもりはたご)が、明治になって管理をしやすくするため、現在の相鉄線天王町駅近くの大門通りに保土ヶ谷遊郭として集められ、その後、保土ヶ谷橋交差点に口を開ける、今井川沿いの路地に移転になったようです。
一九三一年に刊行された「大日本職業別明細図・保土ヶ谷区」によれば、遊郭は全部で六軒で、奥の八幡神社側から、松美楼、大松楼、松芳楼、第一万金楼、第二万金楼、そして東家の順で建ち並んでいました。私が物心ついたときには、入り口近くの二軒だけが残っていて、私の家族はその二軒目に暮らしていましたから、おそらく、第二万金楼だったのではないかと思います。
売春防止法の完全施行は一九五八年の四月一日なので、時期的にはまだ現役であってもよいはずなのですが、公許の遊郭ゆえ法律を先取りして模範を示したということなのでしょうか、残った二軒もすでに廃業しており、団体の家族寮として使われていました。旧東家は、現在の東京電力の前身である関東配電、そして我が旧第二万金楼はなんと神奈川県警です。あまりに固すぎる店子(たなこ)からも、率先垂範の模範例の臭いがただよいますが、はて、どうだったのでしょうか……。
大人の世界の事情はともあれ、私たち子供にとっては、そこは願ってもない遊び場でした。おそらく、ほとんどの読者は本物の遊郭の造りをご存知ないと思うので、ここで簡単にスケッチしておくと、外観はもう時代劇に出てくる遊郭そのもので、破風(はふ)のついた玄関を、弁柄格子(べんがらごうし)の顔見世部屋が左右から挟んでいます。格子越しに遊女の品定めをするわけで、ちなみに私の家族は右側の顔見世部屋を改修した部屋を使っていました。
中に入ると、土間も床も、とにかく広い。そこに蒲田行進曲の階段落ちに使ったらよいのではないかと思うような立派な階段があります。私はとうとう隣りの旧東家には入らなかったと記憶しているのですが、旧東家は入ると吹き抜けで、二つの階段がハの字形に組まれていたと耳に挟んだことがあります。
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