異質なものが隣り合いエネルギーを放つ街、横浜。 かの地で生まれ育った著者が思い出を綴る。
松本清張賞に選んでいただいた翌年の二〇一二年の夏、私は入院をすることになりました。なにはともあれ、やらなければならないのは病院選びです。医療技術や家からの距離など、考えるべきことがさまざまにあります。
私の場合は、そういう大事なポイントと並ぶ物差しとして、“たたずまい”がありました。病院の“たたずまい”です。有り体に言うと、“この病院ならば、ま、死んでもしかたないか”と思わせてくれるだけの空間を醸(かも)し出しているか、ということです。
私は六十代の半ばに近づいていました。すでに、サドンデス・サイクルに入っています。そこで最期を迎えることだってあるかもしれません。その一生の最終の節目を、不愉快な空間で迎えたくはない。だからこそ、病院の“たたずまい”をおろそかにできなかったのです。
もっとも、それを意識し出したのはもうかなり前で、浅草の浅草寺病院を目にしたときでした。現在のまだ真新しさを残す建物ではなく、建て替える前の、一九三七年に落成した古典の香り高い建築の頃ですから、たぶん、私はまだ四十代の後半だったと思います。
旧浅草寺病院は、あの重要文化財の明治生命館を設計した岡田信一郎の線を想わせる建物で、建築としても素晴らしかったけれど、それにも増してロケーションがよかった。浅草寺の本堂の裏手……江戸時代ならば見世物の聖地で、妖(あや)しさ溢れる奥山(おくやま)の地に、言問(こととい)通りに面して建っていたのです。
江戸時代の天保(てんぽう)以降ならば、路の向こうには、歌舞伎大芝居の猿若(さるわか)三座がありました。その上、あの吉原も加わります。賑(にぎ)わいは雷門から切れ目なくつづいていたのでしょう。でも、現代の観音裏(かんのんうら)は、近年、一部で裏浅草などと呼ばれているように渋く建物が寄り添って、言問通りには結界(けっかい)めいた趣(おもむき)が漂います。雷門や本堂前、仲見世通りを埋める観光客も、めったに言問通りを越えることはありません。
私にとっては、それがよかった。私は、吉原を散策するときは、浅草の六区から歩いてひさご通りに抜け、言問通りを渡って、そのまま千束(せんぞく)通りを行き、浅草五丁目の信号を左に折れて、かつての羅生門河岸(らしょうもんがし)のどん詰まりに取り付く、渋い路筋が最も味わい深いと感じている者なので、おのずと観音裏の渋さも大いに好ましく、そういう土地の記憶の連なりを含めて、“この病院ならば、ま、死んでもしかたないか”、という気になれたのです。
もしも、都心のゴージャスな最新式の病院に入っていたとしたら、ささいな医療上のミスでも、絶対に許せないという気分になるのではないでしょうか。けれど、旧浅草寺病院ならば(浅草寺病院の関係者の皆様、申し訳ありません。あくまで旧の、仮の話の、私の感じ方です)、“ま、そういうこともあるか”と、自らうやむやにできそうな気がしました。
浅草奥山の、時の堆積に和(なご)んだ建物で、窓の向こうには、部屋からは見えはしないけど吉原があり、数知れぬ刑死者が眠る小塚原回向院(こづかつぱらえこういん)だって近い。そういう折り重なった空間を含めた“たたずまい”が、死に臨む際(きわ)の己の殻(から)を柔らかくしてくれるのではないか……ま、そんな感じでしょうか。病院の“たたずまい”とはいっても、病院だけでは醸せない。場と合わさってこその“たたずまい”なのです。
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