あのとき私は夫婦げんかをしていた。
夫婦げんかをすると当たり前だがメランコリックになる。お互いを正しく理解した、という大前提があるからこそ結婚するわけで、だとしたら、その後、言い争いになることなど矛盾しているではないか。そんなアホ臭い幻想を私は結婚に抱いているところがあって、だからこそ、口論はなるべく避けるようにしているのだが、口論を避けるあまり小さな嘘をつくことがあり、そして、哀しいかなその嘘をコロッと忘れていることもあり、それがばれると、まあ、そこそこの大喧嘩になってしまうわけだ。まったくの口論避け損である。
いや、口論を避ける。って。
それ自体がまた結婚の定義めいたものに照らせば、おかしな話であって、結婚だなんだの前に、ようするに私は、事実を曲げてでも人と争うことがただただ嫌なだけなのである。昔から、いさかいのもとはフワッとさせていたい性分だ。しかし凸に凹がスッとはまるように、出会った妻は、曲がっていることが大嫌いな人なのである。私の曲がっている部分をとことん精査し、正しく伸ばそうとしてくれるのである。
それはありがたいが、そういうときつくづく、
「女は怖い」
と、思ってしまうのだ。
犬山紙子が「マウンティング」なる言葉を使って、女同士がいかに言葉でもって互いの優劣を婉曲に競い合う生き物だということをこの本でも展開していたが、そういうのを読んで、確かにそれはあるなと思い、
「ようやるわ、女って疲れないのかな」
と、げんなりしたりもするのだが、そう思うこと自体が「そうやって高見に立つこと自体がマウンティングです」と言われかねない、まったく「よう人のアラを見てますね!」というギラギラ感が、また怖い女なんですよ。犬山という女も。
女は男にとって予告なく出題され続けるクイズのようなものだ。
犬山と初めて会ったとき、多分、彼女はまだ、なにものでもなかった。私の行きつけの四谷三丁目のスナックで、ママに「おもしろい子なのよ」と紹介されたのだが、やけに美人でやけに鼻の角度が鋭角的なので、くやしまぎれに(なにがくやしいのかよくわからないが)「整形?」と聞いたら「違います」という、当然と言えば当然、失礼といえば失礼、と言うやりとりがファーストコンタクトだったように思う。『負け美女』という処女作を出した頃か、出す前か。そのあたりだ。
そのときへんに覚えているのが、
「松尾さんは、モテそうだもんなあ……」
という、普通に聞けば褒め言葉であるようなことを、じゃっかん批判めいた目つきで言われたことだ。そうは言われても批判されるいわれはないしモテもしないので、変な言い方をするもんだなあと思っていたのだが、後々、その眼差しの意味はわかることになる。
それから1年余りで彼女はどんどんメディアに露出するようになった。観察眼のおもしろさと、愛嬌と、美人だ、というのも否定できない要因だろう。犬山は自分の美人を転がしつつ転がし過ぎず、いいバランスで使いながら着々と地位を固めつつあった。
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