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天才絵師の生涯を骨太に描き、直木賞を受賞した安部文学の金字塔(後)

天才絵師の生涯を骨太に描き、直木賞を受賞した安部文学の金字塔(後)

文:島内 景二 (国文学者)

『等伯』 (安部龍太郎 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

 ちなみに、『等伯』の単行本は、菊地信義の装幀だった。その迫力にも、息を呑んだ。「松林図屏風」を、上巻ではネガで黒く反転させ、下巻ではポジで明るく浮かび上がらせる。これにより、等伯の心の深奥に潜んでいた巨大な可能性が、等伯の心を突き破って現実のものとなった奇蹟の瞬間を、見事に掴み取った。安部龍太郎の才能が、長谷川等伯という素材の発見によって、十全に開花した事実を見抜いた、ダイナミックな装幀だった。菊地は、狩野派と命をかけて敵対した等伯の志を、「安部=等伯」に寄り添って造型し、安部の突破力に「賛」を描き加えたのだと思う。

 さて、等伯の傑作「松林図屏風」には、彼だけでなく全人類の魂の原郷を吹き流れる空気が描かれる。画面からは、松と松の間に漂っている霧が、猛然とした勢いで立ちのぼる。

 いや、違う。霧は描かれていない。描かれていない霧が、前面に押し出されてくるという驚異の技法である。中国水墨画の天才牧谿(もっけい)に学びつつ、牧谿を越えた日本の水墨画の出現した瞬間である。見る人によって、牧谿(中国文化)を消去した上に、等伯(日本文化)が上書きされたのか、牧谿を基礎として、牧谿を残したまま、等伯が新機軸を挿入・追加したのか。判定は別れるだろう。

 私は、後者だと思う。すなわち、自分とは異なるタイプの天才画家永徳との命をかけた戦いを通して、等伯は狩野派の神髄を自らの中に取り込んだのではないか。孤立した天才ではなく、他人と心の繋がった天才へと脱皮した等伯は、中国文化や狩野派との和解を成し遂げた。

 だから、「松林図屏風」の中の松林は、養父母であり、亡き妻であり、亡き子であり、亡きライバルの永徳であり、いつか亡くなるであろう自分自身である。等伯を苦しめ続けた亡き兄の武之丞や、主君筋の亡き夕姫の魂も、この松林の空気中に溶け込んでいる。この松たちを結びつけているのは、形がないがゆえに強烈な存在感を獲得した霧である。

 この霧は、自己と他者、日本と異文化を結びつける接着剤でもある。等伯は、ここまで芸術を深めた。安部龍太郎もまた、袋小路の日本文化を突き抜けて、ここまで文学を深めた。京都という巨大な文化の中心に敢然と飛び込んで、天皇制や茶道の本質に触れた成果である。日本文化の桃源郷(ある意味での袋小路)を作り出した古今伝授の巨人・細川幽斎や、日本文化をまるごと破壊しようとした織田信長を描いてきた安部は、等伯という芸術家の分身を見事に造型した。そのことで、日本文化を突き抜けた。

『等伯』の最後で、等伯は江戸へと向かう。だが、残酷な歴史は等伯に、江戸で新しい芸術を創出する余命を与えなかった。その使命は、これからの安部龍太郎の作品が、受け継いでくれる。『等伯』は、更新した安部文学と日本文化の原郷となる。

『等伯』を通読すると、安部の描く等伯は、十回近くも壁を突き抜けている。つまり、等伯と安部は、生の更新に絶えず成功してきた。これが、日本文化を生成し、成長させ、現代化させるシステムだった。この文化論を、人間の物語としてドラマチックに描ききったところに、『等伯』の達成がある。

『等伯』は、安部文学の金字塔である。直木賞にも輝いた。だが、この原点をさらに突き抜けて、安部龍太郎は高次元の苦悶に到るだろう。それが、文学者の「業の深さ」である。二十一世紀の混迷する世界の中で、日本人である私たちは、今、何をなしうるのか。何に苦しむべきか。安部文学と共に、読者も世界を覆いつくしている閉塞感を感じ、それを突き抜ける気概を分け与えられる。『等伯』は、新たなる突破の熱源となる。

文春文庫
等伯 上
安部龍太郎

定価:825円(税込)発売日:2015年09月02日

文春文庫
等伯 下
安部龍太郎

定価:847円(税込)発売日:2015年09月02日

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