「天才絵師の生涯を骨太に描き、直木賞を受賞した安部文学の金字塔(前)」より続く
等伯の原郷は、能登の七尾。彼は風に突き動かされて七尾を去り、都へ向かう。彼は、人生の最大の切所で、七尾の「風」を「松林図屏風」に再現することに成功した。けれども、「松林図屏風」に描かれたのは郷里の七尾であると同時に、宗教的な法悦に満ちた「虚空会(こくうえ)」の新世界でもあった。
能登と言えば、画家・西のぼるの故郷でもある。『等伯』は、平成二十三年一月から日本経済新聞の朝刊に連載されたが、西の挿絵が華を添えた。西の画風と、安部の作風は微妙に、いやかなり異なる。静である西の作風はむしろ狩野派に近く、安部の作風は等伯と近いのではないか。
『等伯』第九章で、狩野派と等伯の画風の違いが、等伯の長男で、永徳にも心ひかれる久蔵をフィルターにして語られている。
「等伯の絵は技法によって仕上がったものではなく、天才的な個性からあふれ出るようにして発したものである。だから、近付こうとしても、同じ方向をめざしているかぎり等伯以上のものは描けない」。だが、狩野派の総帥である永徳は、「狩野家が長年積み上げてきた技法と修練の土台の上に成り立っています。ですから、誰でも鍛練を積めば、今の水準をこえる可能性があるのです(中略)。新しく作るのではなく、完成したものをひと回り大きくするのです。ですから、先代たちの仕事をすべて身の内に入れておかなければなりません」と、久蔵は言う。
ここで安部は、日本文化を進化させてきた二つの有力な方法を対比している。吉川英治ならば、等伯が武蔵で、狩野派が吉岡一門だ、と言ったかもしれない。国文学者ならば、等伯が本居宣長で、狩野派が古今伝授の系譜だと言うだろう。『等伯』第五章で、かつて和歌に志したことのある日禛(にっしん)上人が、「古今伝授」の伝統に対する批判を口にし、等伯もそれを聞いて賛同する場面がある。日禛は、藤原定家から細川幽斎にいたる「古今伝授」の分厚い伝統の蓄積をたった一人で突き破り、突き抜けた。正岡子規の「歌よみに与ふる書」は、古今伝授と狩野派を弾劾するが、子規もまた明治時代の「等伯」たらんとしたのだろう。
過去の文化を否定せず、その上に新たな創意や新知見を加え、なおかつ全体を空中分解させずに統一感と調和を持たせる接着力。それが、狩野派や古今伝授の本質である。日本文化のアップデートは、主として、この方法によってなされた。それに対して、天才等伯は、自分一人で人類の進化をやり直そうとする。この「ちゃぶ台返し」の力業は、学問の世界では本居宣長のような天才中の天才にしかなしえない。
日本経済新聞の連載中は、安部と西の二人は、「安部=等伯」と「西=狩野派」の対決を、新聞の読者に見せつけてくれていた。すると、二つの方法の鬩ぎ合いの中から、第三の日本文化のアップデートの方法が姿を現してきたのである。日本経済新聞の連載を初回から最終回まで読破した私は、そのことを実感した。言うならば、狩野派と等伯が一つに溶け合ったのだ。
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