基本的に「年齢もこんなになってから生むなんて、この出産、野田聖子さんのエゴすぎる」っていう先入観とか意見とかが、とにかく多いみたいだった。でも、そんな批判はまったく成り立たないと思う。だってすべての出産は、親のエゴだから。「女に生まれたからには一度は生みたい」「愛する人の子どもがほしい」「やっぱ遺伝子残したいよね」っていうのと、「野田の跡継ぎがほしい」っていうのに、動機としての優劣なんて、もちろん、ない。それに、赤ちゃんの健康は、特殊な例をのぞけば、ほぼ偶然が支配しているものなのだし、健康な赤ちゃんが生まれてきたとしても、それは母親の手柄でもなんでもないよ。50歳だろうと、20歳だろうと、生んでみるまで、また、生んでからも、赤ちゃんのことはわからない。リスクはみんな一緒だし、無事に生まれてきてほしいと思う気持ちだって、みんな、おなじなのだしな。
だから、「生んでもらった」「生んでくれた」「生んであげた」みたいな応酬というか定形みたいなのを、もうそろそろやめたほうがいいんじゃないのかな、とテレビを見ていて何度も思った。もちろん、出産は命がけの非常事態で、それじたいはすさまじいものなんだけど、でもそれは親になる人が勝手に望んでやっていることなのだしなあ。その文脈で、個人的に胸をうたれたのは、野田さん自身が「丈夫に生んでやれなくってごめんね」とか「わたしのせいで」みたいなことを、一度も口にしなかったことだった。
とまあ、こんなふうにざあっといろいろなことを考えさせられたわけなんだけど、現実問題としてこの状況って、今後かなり一般化するような、そんな気もした。野田さんのケースは経済状況もふくめて、いまはまだレアケース、って感じで受け止められているけれど、これからどんどん増えていくだろうし、これからの女性たちにとって野田さんの経験は他人事じゃなくなる気もするんだよね。政治家として、前例がほとんどないなかで、これを大きく問題提起したことは意義あることだと思う、その半面……正直、なによりも大きな問題として、考えるとちょっと暗い気持ちになってしまうのは、やっぱり息子さんのプライバシーにかんすること。自分で承知するまえに、親を経由して、否応なく──名前、病歴、顔……個人情報のそのすべてが人の知るところになってしまったことは、気の毒だと思ってしまう。「野田聖子の人生は、野田聖子の人生だ」とわたしはたしかに思ったけれど、それはあくまで野田聖子のからだのなかで起きている事態にのみ有効なものであって、生まれてきたあとの子どもにたいしては、それはもう、どこまでも細心の注意を払わなければならないと思う。
どこからが自分のことで、どこからが、自分のことではないのか。
ひとつの生活についてくまなく記録しようとするとき、できるだけ詳細に表したいと願うとき、これはたしかにむずかしいことではあるけれど、でもその線引きは、なによりも優先されるべき姿勢であり、どうじに技術であると、そう思う。もちろんこの「きみは赤ちゃん」だって例外ではなく、じつはそこにいちばん緊張感をもって、どきどきしながら書き進めているわけであって、ああ、自戒をこめて、そんなことを思うのだった。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。