また彼女もそのことを十分に承知し、自分が誰かの命を支えるためのすべてになるという責任を全うした。理屈で考えれば相当に重いはずの責任を、ある時は本能的ともいえる気楽さで、ある時は人間性の根幹に根ざす思慮深さを持って背負った。
ところで、キップスがピアニストであった事実は、素晴らしい偶然としか言いようがない。ジュウシマツの鳴き声から言葉の起源を研究している岡ノ谷一夫先生の実験室を訪ねた折り、雛は求愛の歌を父親から学び、強制的に親から切り離して無音の中で成長させると上手く歌えない、というお話を伺った。となればクラレンスの手本となるのは当然、キップスになる。彼女のピアノがあってこそ、彼は自分の歌を成長させ、磨き上げることができた。
彼は音楽に反応し、感情を高ぶらせた。キップスがいないところで一人練習を重ね、メロディーを生み出し、技巧を駆使して更に曲を膨らませていった。鳥は単に持って生まれたものだけを使って、何も考えずに歌っているのではない。学習し、努力している。練習のために孤独な時間を求める。その果てに彼は、ピアニストも感嘆させるほどの作曲家兼歌い手になった。キップスは彼の音楽の中に“疑う余地のない「美」”を見出している。芸術は人間だけの特権にはおさまらない。掌に載るほどの生きものも、それを創造しているのである。
ただクラレンスの歌は、本来の目的、つまり求愛のために使われることはなかった。ここで私は、岡ノ谷先生の実験室に、パンダと名付けられた一羽のジュウシマツがいたのを思い出す。パンダは他の誰も真似できない、複雑で長大な歌をうたうことができた。実験室の歴史上、最も偉大な天才、ジュウシマツの中のモーツァルトだった。そのパンダもまた、自分の歌声を使って求愛しようとはしなかった。メスのためではなく、自分のためだけに歌った。子孫を残す実用的な目的より、自分の生み出す美に自分でうっとりするという純粋な喜びの方が、上回ったのだ。
クラレンスの場合も似たような現象が起きたのだろう。体と環境の問題から、彼の歌には元々の目的が設定されていなかった。彼には、美を表現するためだけに歌う自由が許されていた。そのうえ最上の先生がついていた。こういうすべての運を活かしきるだけの才能を、クラレンスは持っていた。
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