本当に書きたかったのはキリスト教の話
中村 この本を読んで、私はマルクス主義とキリスト教というのは矛盾すると思っていたから、佐藤さんがキリスト教的にマルクスを理解する、という試みをしているところが面白かった。そんなこと、普通やらないじゃない。
佐藤 僕が『私のマルクス』で書きたかったのは、うさぎさんは気づいたけれど、実はキリスト教の話なんですよ。ただ、真っ向からキリスト教のことを書こうとすると、日本じゃなかなか難しい。キリスト教のことを語るとき、日本の風土で理解されるには、神学の言葉がほとんど使えないんです。そうすると、僕が今持っている言葉の中で一番使いやすいのがマルクスの言葉だった。
中村 マルクスには「革命をしたい」という強い願望があって、『資本論』を書くうえでもその願いに邪魔されて資本主義の力を軽く見すぎていると書かれていた。無神論者のマルクスですら革命という願望があって、それは宗教みたいなものでしょ。彼がカリスマ性を持ったのは宗教だからだよね。ところで、私はこの本の中で一つ、佐藤さんにすごく聞きたかったことがあるんだけど、聞いていいですか?
佐藤 はい、どうぞ。
中村 今、プロテスタントは聖書に書かれていることを寓意として解釈していく流れになっているでしょ。マリアの処女懐胎とかイエスの復活も寓意であり、そこに盛り込まれているメタファーや哲学的真実を読み取るというような。しかし、そこにカール・バルトっていう人が現われて、もっと宗教的な本質に戻そうとする、と書いてなかったですか?
佐藤 そうです、そうです、そのとおり。
中村 で、なぜ佐藤さんがバルトにいったのかわからない。私は寓意として解釈するのが一番いいんじゃないかと思うの。
佐藤 バルトがしようとしたのは、その寓意を徹底してイエス・キリストという男の生涯の人間関係――特に弟子との関係において――そこのところに世の中の全てが読み込まれていると考えた。バルトはイエス・キリストだけに集中して見ていくわけなんですよ。
中村 はあ、なるほどね。私はそこで、前時代的というか、自然科学の否定みたいな域に入ってしまったのかと思った。
佐藤 全然違う。そっちの方向じゃない。でも、同じような質問を時々、いろいろな人から受けるんです。「佐藤さん、なんでそんな反新自由主義とかいって天皇主義者みたいになっちゃったの?」と。
中村 私はそこも聞いてみたかったんだけど、佐藤さんの中でキリスト教と天皇はどのように併存しているわけですか?
佐藤 キリスト教と天皇というものの関係は矛盾しないと思うんですよね。
中村 天皇は佐藤さんにとっては何なの? なぜ必要なの?
佐藤 なぜ天皇が必要というか、ありがたいと強く思ったのは、やはり二〇〇二年にパクられたとき。天皇という権威があって、大統領とか総統とかがいないおかげで僕も鈴木さんも殺されずにすんだ。権威と権力の両方を持つ小泉総統とか田中真紀子大統領とかがいれば、気に入らない奴を徹底的に消滅させることができるはずです。でも、ぎりぎりのところで最高権力と最高権威者を一身に体現した者がいないのが日本のありかたでしょう。その最後のぎりぎりのところを担保しているのが天皇だと思うんですよ。
中村 天皇でなくちゃいけないわけですか。私は天皇が抑止力になっているというのはピンとこないけど。だって、天皇陛下が「死刑はやめなさい」とか言ったわけではないでしょ。
佐藤 天皇というのは政治的な言葉を発しないから重みがあるのです。ぎりぎりのところで自分の意思を発するのは和歌だけでしょう。それは多義的に読み込める。今回捕まった経験で思ったのは、もう一度本格的に和歌を勉強しないといけないということ。だから、南朝側の準勅撰集である『新葉和歌集』からスタートして、いま『新古今和歌集』を勉強しています。その他の古典でも『古事記』『日本書紀』『大日本史』と読んできた。そんなふうに日本の伝統に興味を持つようになったのは、パクられて、自分はほんとにありがたい国に生きていると思ったからですよ。
中村 そこが、どうもよくわからん。
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