著者はこの物語を書いた時、そんな時代を見つめていた、二十代の女性でした。その姿は、本書においては瑠璃子になぞらえることができましょう。瑠璃子は、邦枝や光也よりもさらに若く、自由な世代です。深い闇のあまりにも近くにいたため、闇の世界から光の世界へと方向転換をせざるを得なかった邦枝たちの世代に対して、瑠璃子の世代は、闇をも光をも、同じくらいの距離をとりながら、客観的に見ることができます。瑠璃子に言わせれば、
「私たちは古いことに抵抗しないし、新しいことにも反撥しないで歩ける世代なんです」
ということになります。
瑠璃子は「新しい世代」に属しているからこそ、菊沢寿久の「闇」に対して身構えず、また恐れもせずに、近づいていきます。大検校としても、闇の世界に新風を吹き込ませた瑠璃子のことを、可愛がるようになりました。
瑠璃子にとっては、邦枝もひと世代上の人として見えます。世の中が激しく変化していた当時の「ひと世代」の違いは、今よりもずっと大きかったことでしょう。瑠璃子は邦枝に対して、
「その年齢の人たちは、古来の婦徳を涵養する方針で育てられてきたもののようであり、その過程で新しい意識に眼醒めかけているようなのだ」
と思っています。邦枝のような戦中派の女は、
「殊に旧態と革新に挟まれて中途半端なまま家庭でくすぼっている人々が多い」
とも。
してみると邦枝は、アメリカ人の夫に手を引かれて闇の世界から抜け出したものの、光の世界にも完全に落ち着くことはできず、両者の狭間で懊悩している、ということになります。寿久もまた、古い世界にとじこもって、邦枝のことを許そうとしません。そこにあっけらかんと登場して、途切れてしまった両者の間に橋をかけるのが瑠璃子なのであり、そんな瑠璃子を描くことができたのは、若い有吉佐和子だったからこそなのではないか。
しかし瑠璃子は、父と娘の間に橋をかけることはできても、大検校と弟子との間をつなぎなおすことは、できませんでした。光也は、古い弟子達のおどしにも動じずに、「菊」の字を捨てて伝統の側から去って行きます。寿久に対する「愛しつつ抵抗する。反逆しつつ愛する」という光也の姿勢を、おそらく寿久もわかってはいるけれど、二人の間の距離は、もう縮まることはありません。
物語の、最後。病身の大検校が、邦枝と瑠璃子らに抱えられるようにして二階に上がって行ったことは、自らの演奏の録音でした。「弟子に、人間に、愛想を尽かして」いた彼が最後に頼ったものが機械であったというのは、時代がもたらしたおおいなる皮肉です。
弾く者の技術や感情を、そしてその場の気温や湿度を敏感に感じ取る有機的な楽器である三味線の音を、最後は機械に託すしかなかった、寿久。しかし彼には、わかっていたのかもしれません。今は途切れたように見える伝統も、音さえ残しておけば、いつか誰かが発掘してくれる、と。
伝統芸能の世界のみならず、こういった断絶は、当時の日本においてあちこちで見られたのだと思います。そして若き日の有吉佐和子の敏感な耳には、「ぷつり」と何かが途切れる音が強く響き、それがこの物語となった。
瑠璃子の年頃で「断弦」を記した有吉佐和子が、では寿久の年になったら、どのような物語を書いていたのか。死後三十年が経った今、私はそれが知りたくてなりません。伝統と世代の断絶が見られた頃から時は流れ、「伝統」が珍重されるようになった今を、彼女はどう記したのか、私達はもう、想像するしかないのです。
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