書評

国敗れて女海賊現る

文: 池上 永一 (作家)

『ナツコ 沖縄密貿易の女王』 (奥野修司 著)

 僕の母が聞かせてくれる戦後の沖縄の話は、法螺(ほら)話のようだった。母はよくあんなに豊かだった子ども時代はないと言い、またあるときはあんなに貧乏だった時代はないと言う。

 贅沢をしていたと豪語する少女時代、母は七段飾りの雛人形を持ち、誕生日には三十二色のステッドラーの色エンピツを貰ったという。そして貧乏だった思春期、母はパイン工場で女工哀史さながらの生活を強いられたという。

 僕の目には母が気分次第でお姫様と悲劇のヒロインを演じ分けているように映った。

 しかし話を聞くにつれ、それが祖父の栄枯盛衰と完全にシンクロしていたことがわかってくる。祖父は密貿易の胴元のひとりだった。二十トンもないボロ船を駆り、台湾や香港から物資を調達してくるのだ。

 密貿易というのは取り締まる側の言葉だ。祖父は商売と言っていた。当時の沖縄は生産基盤を失った完全な焦土であり、絶望的なほど食糧が不足していた。食べるため、生きるため、祖父はアメリカ軍の目を盗み、基地の物資を略奪した。その物資を台湾の豊かな食料品とバーター貿易するのだ。

 そんな時代、夏子という、祖父でも裸足で逃げ出すほどの女傑がいた。抜群のセンスで市場の相場を読み、富を公平に分配する。お尋ね者だが、警察内部の情報にも強く、逃げ足も早い。おまけに絶世の美女ときた。台湾や香港、そして当時沖縄にとって外国だった神戸でも夏子の名を知らぬ者はいなかった。まさに無敵の女海賊だ。

 夏子が駆る新造船『開幸丸』は、当時としては破格の百馬力のエンジンを搭載したモンスターシップだ。まるでどこかの国の工作船を彷彿(ほうふつ)とさせるが、絶対に沈んだりはしない。二月の時化(しけ)や八月の台風に遭遇しても必ず港に帰ってくる。

 本書はアメリカ統治時代の圧政のなかで君臨した沖縄の密貿易の女王・夏子の波乱万丈の生涯を追う渾身のノンフィクションだ。

 沖縄の人間なら誰でも密貿易の時代を知っている。しかし語るだけで記すことはなかった。これは沖縄人の特徴のひとつで、記述することに意義を見出さない。歴史家が琉球史の前でしばしば絶望するのは、古文書の圧倒的少なさにあるという。王朝の外交文書である『歴代宝案』が僅かに資料性を残すのみで、あとはほとんど記されることはなかった。その『歴代宝案』も帰化人である中国人が編纂したというのだから、琉球民族は記述には完全に興味がないと言ってよい。

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ナツコ 沖縄密貿易の女王
奥野修司・著

定価:本体752円+税 発売日:2007年10月10日

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