書評

物量で劣る相手にいかに戦うべきか。帝国陸軍がアメリカを前に辿り着いた結論。

文: 早坂 隆 (ノンフィクション作家)

『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」 帝国陸軍戦法マニュアルのすべて』 (一ノ瀬俊也 著)

 殺到する米軍の上陸部隊に対し、日本軍は島中に洞窟陣地を張り巡らせて迎撃した。ちなみに、このような洞窟戦法は、ペリリュー島の戦いを嚆矢として、後の硫黄島や沖縄での戦い方に受け継がれていくことになる。

 ペリリュー島の中心部に向かって密林の中を歩いていた私は、米軍側が「死の谷」と呼称したという一帯に出た。両側を鬱蒼とした木々に挟まれた薄暗い一本道である。

 戦時中、米兵がこの道を進むと、両脇の洞窟や岩の裂け目から無数に銃弾が飛んで来たという。敵の姿が見えない中、静かな谷にヒュンヒュンと弾丸のみが飛び交う局面は、確かに強烈なる恐怖心を呼び起こしたに違いないと容易に想像できた。

 幾つかの洞窟内部への出入口付近を確認すると、その多くの部分が黒く焼け焦げた状態となっていた。その黒々とした焼け跡は、米軍が使用した火炎放射器の威力を如実に示していた。米軍が火炎放射器を実戦に初めて導入したのがペリリュー島であった。新兵器である火炎放射器は、洞窟内に潜む日本兵の身体を一挙に焼き払った。私は洞窟内を這って進みながら、「そこまでする必要があったのだろうか」との率直なる疑念を感じた。

 しかし、本書を読み進めれば、この残酷なる燃焼の意味が腑に落ちる。米軍が抱いた日本軍への「深刻なる恐怖」が、一種のヒステリックとも言うべき戦い方に繋がったことが理解できる。

 ペリリューの戦いから帰還できた日本兵は僅かに三十四名のみと言われるが、その中の一人の方にお話を伺う機会があった。土田喜代一さん(取材時・九十五歳)は、米軍の上陸後、上官から「棒地雷」なる武器を手渡されたという。

「海軍の私は棒地雷というのをこの時に初めて見ましたが、陸軍には前からあったようですね。ちょうど刀の鞘を少し大きくしたようなもので、先端に爆薬筒が付いているんです。この棒地雷を持ったまま『戦車のキャタピラに体もろとも突っ込め』ということでした」

 結局、土田さんの多くの戦友たちが、この棒地雷を使って戦車と共に肉弾と散ったという。

 本書では、日本軍が生み出した様々な地雷や手榴弾についても事細かに述べられている。「棒地雷」のような「対戦車肉迫攻撃」が生まれた背景について、一ノ瀬氏は日本軍が作成した戦車攻撃教育用のマニュアル本の内容を引用しながら次のようにまとめている。

〈対戦車肉迫攻撃は本当に万能の戦法だとか「皇軍独特」だと信じられていたのではなく、当時の軍人としても出来ることなら戦車には戦車や火砲で対抗したいが国力の格差はそれを許さないという苦い認識に基づき、仕方なく持ち出された戦法に過ぎないということがわかる。肉弾は別に神聖視されるべきものではなく、あくまで「創意工夫」「希望」、すなわち現実との妥協の産物であった。それを単なる狂気とか精神論で片付けてしまうことは、過去の日本人を理解する正しい態度ではない〉

 物量で明らかに格差のある相手を前にして、軍隊として如何に戦うべきか。陸軍の計り知れない苦悩に思いを馳せなければ、先の大戦の悲劇性を理解することはできない。

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米軍が恐れた「卑怯な日本軍」 帝国陸軍戦法マニュアルのすべて
一ノ瀬俊也・著

定価:本体730円+税 発売日:2015年10月09日

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