インタビューほか

「特攻」とは何だったのか
森史朗×保阪正康

「本の話」編集部

『特攻とは何か』 (森史朗 著)

――まず、『特攻とは何か』の本題に入る前に、プロローグにも書かれているように特攻と、九・一一同時多発テロやロンドン地下鉄爆破事件などのテロ行為とのちがいについて、お話しいただけないでしょうか。

保阪 それは簡単なことでしょう。戦時下であるか、そうでないか。戦時下の戦闘行為としての特攻と、平時におけるテロとは根本的にちがっているでしょう。

 テロリズムとは、辞書的な意味でいえば単に暴力主義、反政府的暴力行為ということになります。一般市民をまき込んだ無差別な破壊的行為ともいえるでしょうね。

 特攻は戦闘行為ですが、しかしそれが「決死」ではなく「必死」の戦法、すなわち特攻=体当たり攻撃を発意した日本海軍の最高指揮官大西瀧治郎中将がいみじくも語ったように、それが正常な戦闘行為でなく、「統率の外道」というべきものであったことはまちがいありません。

 特攻を語る場合に、この大西中将が自嘲して言った言葉の重味を、まず踏まえておく必要がありますね。

“命じた側”はどう生きたか

保阪正康(ほさか・まさやす)1939年札幌市生まれ。同志社大学卒業後、編集者などを経てノンフィクション作家。主に医療と昭和史の分野で活躍。主著に『東條英機と天皇の時代』(ちくま文庫)、『瀬島龍三』(文春文庫)、『対論 昭和天皇』(文春新書)など。平成16年、菊池寛賞受賞。

保阪 では、本題に入りましょうか。

 私は森さんの『特攻とは何か』をゲラ刷りで読んで、こんな感想を持ちました。私も特攻については昨年、『「特攻」と日本人』(講談社現代新書)で、隊員たちの遺書を通して特攻作戦をたどるという作業をした。以前から、特攻隊に大変関心を持っていたけれども、彼らの遺書を読むと涙が出る世代なんですね。どうしても、今まで書けなかった。特攻というのはやはり人為的なことですから、命令した人がいる。その責任はきちんと問うべきです。そのため、書くのに何か構えというものがいる。去年、その構えがいちおうできて、ようやくこのテーマに取り組むことができたというのが正直な気持ですね。

 私が特攻隊に関する本を書き上げたのは一九八六年(昭和六十一年)の『敷島隊の五人』(文春文庫)が最初です。

森史朗(もり・しろう)1941年大阪市生まれ。慶應義塾大学卒業後、文藝春秋新社入社。「文藝春秋」編集長、取締役編集担当などを経て退社。著書に『敷島隊の五人』『零戦の誕生』(以上、文春文庫)、『運命の夜明け――真珠湾攻撃全真相』『暁の珊瑚海』(以上、光人社)がある。

 これは昭和十九年十月二十五日、比島最前線のマバラカット基地を飛び立った最初の神風特別攻撃隊敷島隊の五人の隊員たち、それぞれの最後の五日間をたどるというテーマで書いたものでしたが、これは特攻を命じられた側に視点をおいているために、命じた側、つまり当時の在比第一航空艦隊(一航艦)司令長官大西瀧治郎中将の立場が充分に描かれていない、という指摘があったんですね。

 特攻とは、米軍艦船に飛行機もろとも体当たりせよ、という非情な命令です。志願を募るという形式をとるけれども、実質的には上官が部下に参加をうながす半強制的な意味あいが強いものだった。そのことは、前著に充分に書きました。では、命令する側がなぜこんな非道な命令を下したのか。

 新書の編集部から最初にその問いかけをされたときに、なるほどその視点で書かれたものはないと気づいたんです。命じられた側の悲劇は数多く書かれて個々の悲劇性は大いに語られるけれども、命じた側は大西瀧治郎一人が“特攻の創始者”と評されているだけです。その配下に一航艦参謀長、首席参謀、各航空隊司令、飛行長、飛行隊長たちがいたはずだ。彼らは、そのときどういう対応をしたのか。何を考え、その渦中をどう生きたのか。そのことは、今までまったく書かれていない。

 これは、命令系統のあり方、上司と部下の関係において今日的テーマとなりうると考えた。つまり、日本人論としてのテーマですね。結果的に、その試みが成功したかどうかはわかりませんが……。

保阪 おっしゃる意味に賛成です。たとえば、海軍作戦の中枢部にいた軍令部第一部長中沢佑少将という人がいる。

 その人は特攻作戦について、大西中将がフィリピンに進出するさい、軍令部総長(及川古志郎大将)にはじめて「体当たり必死戦法」を説き、列席した軍令部首脳(伊藤整一軍令部次長、中沢第一部長)が寝耳に水のおどろきであったように、回想録に書いている。

 ところが、その頃中沢少将は前線視察に出かけていて彼の記述とは日程的につじつまが合わない。その後のことですが、この点を戦史家妹尾作太男氏に指摘されて、中沢さんが海軍関係者の会合で絶句する、という場面があったりした。

 そうですね。大西中将がレイテ決戦の前に前線進出するのは十九年十月初旬のことで、この頃すでに特攻兵器である人間魚雷「回天」の製作がはじまり、搭乗員の養成がおこなわれていたから、海軍首脳は部内でひそかに特攻の実施を決定していたわけですね。こういうデタラメが戦後も永くまかり通ってきた。

保阪 その大西瀧治郎ですが、彼は中沢証言や当時の現地指揮官たちが書いた『神風特別攻撃隊』(猪口力平・中島正共著、日本出版協同=昭和二十六年刊)などによって“特攻の創始者”とされた。敗戦後、彼はその責任を負って自決するわけなんだけれども、彼の個性や軌跡をたどってみると、過分にそれを背負い込んでいるような事実がある。

 同時に、大西は最後には内地にもどって海軍の軍令部次長という要職につくんだけれども、彼のなかにはものすごい危険な部分がある。つまり、特攻という、「統率の外道」をあくまでもつづける狂気の部分ですね。これが大西が責任を押しつけられた理由のひとつですよ。

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特攻とは何か
森史朗・著

定価:本体890円+税 発売日:2006年07月20日

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