インタビューほか

宮城谷昌光×吉川晃司 我々が中国史に辿り着くまで

『三国志読本』(宮城谷昌光 著)より抜粋

『三国志』が原点だった。 “心の師”として敬愛してきた作家の住む浜名湖畔。 異色の初顔合わせは魅せられた中国史同様、刺激的なものとなった――

日本の歴史小説の誕生

吉川 僕は、宮城谷さんのことを、あちこちで「心の師」と勝手に吹聴させていただいております(笑)。何でこんなに繰り返し繰り返し読むのかなあ、と考えると、中国古代の人間の豊かさが感じられるからなんです。そして、そこで男――自分の美学や志を全うしようとしつつも、世の現実との軋轢に苛まれている――が吐く科白が、一々絶句してしまうくらい素敵なんです。一例を挙げますと、『太公望』の「配下の数がふえればふえるほど、上に立つ者は人から遠ざかってゆく。いまのわたしはそうなりたくない。それゆえ、わたしに仕えるのではなく、協力して欲しい」――。ふっと、自分の中を男のロマンが吹きすぎていく気が、僕はするんです。

 宮城谷さんの著作と、孫子の「兵法」は、僕のバイブルです。『孫子』も日本の戦記ものを読んでいくと、「風林火山」はじめ、どうしても突き当たったんですね。共通するのは、“人間”ということで、人心掌握術というか、人間の使い方のおもしろさというか、そこに惹かれてしまうんです。

宮城谷 そういえば、あるところで吉川さんは「知る者は言わず、言う者は知らず」という荘子の言葉がお好きだとおっしゃっていたでしょう。

吉川 お恥ずかしい(笑)。

宮城谷 それは私も書き留めたなあ、と昔のノートを捜したらでてきましたよ(と、ノートを取り出す)。

吉川 ほんとうですね。その後の「しかれども世は豈にこれを識らんや」と続きも……。

宮城谷 特に何かに利用しようとおもったわけではないですけど、自分で書いたほうが残りますよ。その意味でも、ノートを薦めます(笑)。話をうかがっていて、とても嬉しくおもうのは、言葉を吉川さんが自分の中に潜り込ませた上で話しておられることです。たとえば、孫子がこういいましたという引用ではなく、自分の中を通過させて話されている言葉だというのがよくわかります。私の立場からしましても、そういう言葉でなければ人を打たないんですね。

 ひとりでやっているときには通用した哲学が、自分だけではなく人を活かさなければならない立場では通用しなくなる。もちろん、大企業人の伝記にも興味深いものもあります。しかし、何か見本になる哲学書といえるものを、あなたが日本よりも中国に捜されたというのは正解かもしれません。

 そして、吉川さんが通ってこられた道というのは、実は文学上の話でもあるのです。『宮本武蔵』はじめ、かなり最近まで日本の時代小説は「剣豪小説」でした。ある意味でいいますと、ひとりで切り開いていけばよかった。個に対する信頼度が非常に強くて、企業でもホンダなら本田宗一郎、松下なら松下幸之助個人を崇拝していればすんだのですね。しかし、そういうカリスマ性だけでは対処できない複雑さを時代がもつようになりますと、組織論がどうしても必要となってきます。そのときに、司馬遼太郎という作家が登場してきた、と私はおもうのです。

 司馬遼太郎氏も当初は、『燃えよ剣』の土方歳三のように、個を書こうとしたようにみえます。しかしあそこには、新撰組という組織論が明らかに意図されています。組織自体が生きものであり、組織が個に勝る。さらにいえば、時代も生きものであり、個人は自分の理屈と哲学で生きているのではなく、時代状況に束縛されているのだということを、司馬遼太郎氏は提示した。その時点で、日本に時代小説でなく、はじめて歴史小説が生まれたと私はおもっています。

 ところが、司馬さんも最初の頃は売れなくて本当に苦労したと、かつての担当編集者から聞いたことがあります。

吉川 司馬さんが現れるまで、時代小説はエンターテインメントの要素が強くて、ひとりのヒーローがいればあとは、というのはわかりますが、たとえば織田信長にしても、ひとりでやっていたわけではないのですから……。

宮城谷 やはり、日本だけで生きているというような錯覚があったのでしょうね。それが次第に、経済成長で国際社会の枠組みにくみこまれて、外国――アメリカだけではなく、ヨーロッパ、アジアを視野に入れるようになり、それぞれつきあい方も、宗教も慣習も食事も違うということを考えざるをえなくなった。そういう縮図みたいなものが、意識しないうちに、小説世界でもでてくるのですね。そうして、司馬さんが受け入れられていく素地ができあがっていったということでしょう。

※この続きは『三国志読本』でお読みになれます。

三国志読本
宮城谷昌光・著

定価:1,500円+税 発売日:2014年05月16日

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