……これにて机を叩くを、さて、終えなん──
この最後の一行を読み終え、本をぱたりと閉じる。小さな溜息をひとつ吐き、それから、私は心地よい読後感にしばらく浸った。二〇一七年の夏、酒見版「三国志」の第伍部が世に出てひと月が経とうとしている頃のことである。
厚い本を閉じたまま余韻に身を任せていると、様々な名場面が目に浮かんでは後景に退いていくようだった。
劉備軍団に軍師として祭り上げられ、華々しい初陣を飾った徐庶の迷活躍。市中の人々がミュージカルのようにうたい、翻弄されて殺気立つ劉備たちを孔明(と黄氏)が迎える三顧の礼。その劉備が魅力たっぷりに群衆を惑わしての大移動(長坂坡の戦い)の中で、呉の魯粛に仕組まれた抱腹絶倒の“おともだち作戦”……。
序盤の最大の山場である赤壁の戦いはもちろん、テレビゲームのように人間が跳ね散らされていく張飛や関羽、趙雲の戦闘シーンや、簡雍に男修行を強制される諸葛均のいじらしい姿──と数え上げればきりがない。
初めて『泣き虫弱虫諸葛孔明』を読んだのは、第壱部が上梓されてすぐの時期だったと記憶している。当時、二十代だった私はある雑誌出版社に出入りするライターで、懇意にしていた編集者に勧められ、著者・酒見賢一氏の代表作『陋巷に在り』を読み終えたばかりだった。孔子とその愛弟子・顔回が「呪術」の力によって様々な敵と戦う大河長編、その世界観にすっかり圧倒された私は、同書を読み終えた興奮をそのままに酒見版「三国志」を手に取ったのだった。
酒見氏の描くハチャメチャで一癖も二癖もある三国志世界は、『陋巷に在り』と同じくあまりに鮮烈だった。荒くれ者の集まりで、“非合法でそれほど味もよくないのに、なぜか行列のできる屋台のラーメン屋主人”に喩えられる主君の魅力によって、辛うじてまとまっている劉備軍団。戦争好きで人材マニアである曹操率いる魏。さらに呉のいかつい親分衆が話すのは、「仁義なき戦い」さながらの広島弁だ。
そのなかで、白羽扇をぶらつかせる綸巾鶴氅姿の孔明は、「放火魔」や「変質者」「仙人くずれ」などと嘲笑されたり恐れられたりしており、度肝を抜く深謀遠慮の策略や奇行に誰もが「げえ」と眉をひそめる変人として描かれる。軍団の奇人超人の能力を混ぜ合わせ、「赤壁の戦い」へと雪崩れ込む怒涛の展開には何度も声を上げて笑ってしまった。
それから十三年のあいだ、作品を折に触れて読み返す中で実感したことがある。それはこの酒見版「三国志」を読むという行為が、まさしく一つの「体験」であるということだ。本書を再び読み終えたいま、同じ思いを強くしている。生き生きとあまりにキャラの立った英傑たちに愛着を抱きながら、私は小説というもののすごさをあらためて教えられた気持でいる。
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