彼は言う。
後者の知を前者の知に向かって話そうとすると「わかりにくい」。しかしそこでは「わかりにくい」ことが、一筋の光明であり、希望なのではないだろうか、と。
ユダヤ人的なるものなどない、人はユダヤ人に生まれるのではなく、ユダヤ人に作られるのだ。こういういまなら誰もが口にする社会構成主義の考え方は、「反ユダヤ主義には理由がある」という言説には根拠がなく、したがってユダヤ人迫害は「よくない」と言うのだが、しかし、ここでも内田は、これで問題を終わらせないため、「問題の次数を一つ繰り上げ」よう、と提案する。問題の次数を一つ繰り上げるとは、しかし、「反ユダヤ主義には理由がある」と思っている人間がいることには、やはり何らかの理由があるのではないか、と問いを二階建てにしてみること、である。
内田は、日本とヨーロッパにおける反ユダヤ主義の歴史についても書いている。でもやはり筆者にはその前後の章が面白い。そもそもヨーロッパ、キリスト教というものが、ユダヤ的なもの、ユダヤ教という他者なしには、存在できなかったのではないか、と述べているあたりは戦慄的。なぜキリスト殺しがローマ人でなくユダヤ人の手になるとされてきたのか、というのも腑に落ちる。
さまざまな真理にわれわれは気づく。ああ、そうだったのか、と。さて、「そうだった」と、ここが過去形になっていることに、注意して下さい。
オイディプスは、かつて自分の殺した男が自分の父「だった」ことに気づくのだが、殺してから、気づくまで、そのことは知らなかった。つまり、真理というのは、いつも気づかれないまま、存在している。真理の通常態は「気づかれずに存在すること」なのではないだろうか。悪いことをしたから、それを埋め合わせるため、神とか宗教が考え出されるのではなく、その始原の何か(=真理)がもう存在していて、しかも気づかれていない、ということが、いわゆる可視的なはじまりの前に、はじまっているのではないだろうか。こんなふうに考えすすめられるユダヤ的な知の「始原の遅れ」に関するパートには、有責性という言葉が出てくるのだが、この種の言葉が、こんなに深く、普通の口調で日本語で言われたことは、なかったように思う。そういうことにも筆者は立ちどまらされた。
ここでは理由は述べないが、この本は明らかに本居宣長の仕事の対偶に位置している。われわれにとっても画期的だが、何より、著者にとって、画期的。それがこの本の偉いところであると思う。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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