自分は怠け者であると土屋さんは言っているが(本書「怠け者の本質」)、健康のためにわざわざ歩きにくい靴を買い(「歩きにくい靴」)、居場所を求めて受験生と一緒に自習室にこもる(「自習室の出来事」)ような人が怠け者であるはずがない。それどころか、哲学であれ、ジャズの演奏であれ、エッセイの執筆であれ、一旦何かに熱中すると、とことんのめりこんで、一見不可能に見える目標でも何とか達成してしまうのが、土屋さんの特色なのである。私の目から見ると、土屋さんの過去の経歴には「そこまでやるか」と言いたくなるようなエピソードが山ほどある。ドストエフスキーやハイデガーに衝撃を受けて官僚への道を断念し、将来について何の見通しもないまま哲学科に進学して親を落胆させたり、古代ギリシア語という面倒な言語の習得にもたじろぐことなく、ギリシア哲学を研究対象に選んだり、プログラマーでもないのにコンピュータのプログラム言語を独習し、実用的な価値のほとんどないプログラムを書くのに膨大な時間を費(つい)やしたり、長年修業してきたギターを捨てて、四十歳をすぎてからピアノの演奏や作曲に挑戦したり……。
ただし、土屋さんがいわゆる「努力家」や「勤勉な人」と決定的に違うのは、「役に立つこと」よりもむしろ「無駄なこと」に熱中し、そこに莫大なエネルギーを注ぎ込んで来たという点にある。
土屋さんがしばらく前に出版した自伝的エッセイによると、土屋さんは大学に入る前から、デパートの実演販売や、路上でインチキ商品を売る販売員の口上などが大好きで、うっとりと聞き惚れ、その結果として、くっつかない接着剤、汚れの落ちない石けん、切れないナイフ、すぐ壊れてしまう電動ミシンなどを買わされたという。
常識の立場から見れば、これほど無駄で愚かしいこともまたとあるまい。しかし、無駄か否かという判断は、結局のところ、我々があらかじめ設定した目的に照らしてなされるにすぎない。接着剤や石けんやナイフやミシンなら、その目的がはっきりしているため、役に立つかどうかの判断は難しくない。だが、我々の体験が無駄であるかどうかは、それほど簡単には決められない。たとえば土屋さんのエッセイの会話の歯切れのよさと間合いの絶妙さ(「すべては繰り返す」を見よ)は、本人の話しぶりとは似ても似つかぬものであり、おそらく販売員の掛け合いの語り口から学んだものではないかと私には思える。
さらに重要なことは、こうした無駄や失敗の体験を通じて、土屋さんが、ユーモアの精神によってみずからの失敗を笑いの種にし、その深刻さを和らげる習慣を身につけたことである。つまり、土屋さんにとってユーモアとは、他人を笑わせる技術ではなく、むしろ自分自身に向けられたものであり、自分の人生に対処する一つの方策なのである。そしてユーモアの精神をもって人生を見るならば、人は無駄なこと、つまらないこと、愚かなことのうちにも、老化や病気のうちにさえも楽しみの種を見出し(「老人で何が悪い」)、自分を騙した販売員の話術に感嘆することすらできるのである。
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