かつて関西に住んでいた頃は、ほとんど気にならなかったのだが、ここ数年、京都の町で、東京言葉のマダムの話し声が、ちょくちょく耳に留まるようになった。
「あっ、ここの生菓子、このあいだ買って帰ったら、とっても上品でおいしかったわよ。アナタも買ってみれば?」
「うちはね、家族みんながこの店の漬物のファンなの」
どちらも、とある京都の店での女性客の会話である。東京人であることがすぐわかる。旅慣れていることもすぐわかる。私は感心すると同時に、ついつい彼女たちの熱心な会話に耳をそばだててしまうのだ。
東京人は、京都が好きだ。なかでも、京都のおいしいものにはめっぽう弱い。料理屋めぐりはもちろんのこと、手みやげに京の味を持ち帰る人は多い。
週末の夕刻に、京都駅のデパ地下に行ってみるといい。ここかしこで、みやげ探しに真剣な顔で取り組む、東京から来た多くの観光客に出合うことができる。
しかも驚くべきことに、彼女たちの京都旅行はエンドレスなのだ。デパ地下で手みやげを買った後は、あらかじめ電話予約をしておいた名店の弁当売場へまっしぐら。購入した弁当をかかえて新幹線に乗り込み、出し巻き玉子や鴨ロースをつつきながら、車中で次回の京都プランを友達と練りはじめる。まったくもってぬかりなし。まさに京都旅行のプロである。さらに彼女たちのなかには、自宅に帰ってからも、「お取り寄せ」という手段で日常的に京都の味を楽しむ人さえいるのだから。
しかし、私は関西にいた頃、なぜだかこうした現象にまったく気付かずにいた。これほどまでに京都が、東京をはじめとする他郷の人を魅了するほど、おいしいものに恵まれた町であるとは、認識していなかったのである。おそらく、自分と京都との距離が近すぎるあまり、そのありがたみを感じることができなかったようだ。
つまり、私がいまなお関西に住み続けていたとしたら、この『おいしおす 京都みやげ帖』は、生まれていなかっただろう。幼い頃から慣れ親しんだ京都から遠く離れ、東京に暮らしてみてはじめて、名店みやげの包みの美しさ、味わいの奥深さをあらためて実感することができたのだ。