書評

没後十年、吉村昭氏が書き遺した日本近代医療の父の高潔なる生涯

文: 最相 葉月 (ノンフィクションライター)

『夜明けの雷鳴 医師 高松凌雲』 (吉村昭 著)

『戦艦武蔵』(一九六六)以来、太平洋戦争を題材にした小説を発表していた吉村は、実戦を知る証言者が激減したことを理由に戦史小説の筆を折り、歴史小説を書くようになった。歴史小説としての最初の作品は「解体新書」を訳出した前野良沢を描いた『冬の鷹』(一九七四)である。戦史から歴史への移行は「水の流れに似た自然のものであった」と、随筆「史実と創作について」(『白い道』)に記している。近い過去を描く戦史と比べ、遠い過去を描く歴史は自由度が高く、作家にとって気は楽だ。点在する史実の欠落を想像で埋めるのは作家の力の見せどころでもある。とはいえ、吉村が自らに課したのは、創作であっても史実を歪めてはならないということだった。一面識もない男女が同衾する歴史小説を例に挙げ、物語を優先するあまり史実を軽んじるのは読者を喜ばせているようで、史実を歪めていることだと断じている。小説になると考えた人物であれば、それだけで生涯は劇的だ。史実を尊重しながら的確に描き出せばそれでいい。「史実そのものに十分なドラマがある」(同前)と考えた。

 尊王攘夷論者を弾圧した大老・井伊直弼が暗殺された一八六〇年の桜田門外ノ変から維新までの八年間はとくに、重要な事件が多発して時間の流れが急激に加速したドラマチックな時代である。題材には事欠かず、小説や映画をきっかけに維新の英雄として後世に語り継がれるようになった著名な人物も多い。一方、吉村がこの時代を描くのに採り上げたのは正直なところ、主役級とはいいがたい無名の人々である。

『桜田門外ノ変』の主人公は井伊大老の襲撃を現場で指揮した水戸藩士・関鉄之介。仇討ちを禁ずる復讐禁止令が発布された時代を描く「最後の仇討」(『敵討』)の主人公は、初めて殺人罪で収監された秋月藩執政臼井亘理の息子、臼井六郎。薩摩藩主島津久光の大名行列に遭遇したイギリス人が藩士に殺害された事件を題材にした『生麦事件』に至っては明確な主人公はいない。激変する時代だからこそ、史実に忠実であることが真実を伝える最良の方法だった。

 医師を主人公にした一連の作品もそうである。薩摩藩の軍医として戊辰戦争に参加したのちイギリスに渡り、海軍の脚気撲滅に尽力した初代海軍軍医総監・高木兼寛を描いた『白い航跡』、日本人として初めて近代医学を学び、幕末の西洋医学所頭取を務めた松本良順を描いた『暁の旅人』。『日本医家伝』のような短編集もある。いずれも時代の過渡期に自らの為すべきことを為し、困難を乗り越えようとした一途な個人だ。日本赤十字思想の祖といわれる高松凌雲も、本作『夜明けの雷鳴 医師 高松凌雲』で初めてその生涯を知った読者も多いのではないか。凌雲がパリの医学校兼病院「神の館」に目を留め、西洋の臨床医学と博愛精神を学んでいなければ、箱館戦争での凌雲ら医師たちの行動はまったく違ったものとなり、残酷な結末を迎えていただろう。歴史の表舞台にはほとんど登場しない人々を主役に据え、時代を複眼的に捉える。政権中枢に近い場所にいた医師たちはとくに、開国前後の日本人が西洋に何を学び、日本をどんな国にしたいと願っていたかを知るのに、格好の視点を読者に与えてくれる。

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夜明けの雷鳴 医師 高松凌雲
吉村昭・著

定価:本体710円+税 発売日:2016年07月08日

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