- 2015.10.09
- 書評
フランス・ミステリーひさびさの大鉱脈
文:杉江 松恋 (書評家)
『悲しみのイレーヌ』 (ピエール・ルメートル 著/橘明美 訳)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
「[……]どんな言葉もなにかを表現するものであると同時に、なにかをかくすものだ。言葉の数は多い。そして、そのいずれもが人間的なものだ。もちろん、この殺人もすぐれて人間的なメッセージといえるだろう。ただし、そいつは暗号化されている。おれたちは暗号を解読しなけりゃいけない。だが、おれたちが捜しもとめているものは、あくまでおれたちの一部なんだ。そこんところを理解しなければ、先へは進めない」
ウィリアム・マッキルヴァニー
『夜を深く葬れ』(ハヤカワ・ミステリ)
(田村義進訳)
ピエール・ルメートル、三冊目の脳がざわざわするミステリーをお届けする。
これまでルメートル作品は、第二作の『死のドレスを花婿に』(原著刊行は二〇〇九年。以下同。柏書房→文春文庫)と第四作の『その女アレックス』(二〇一一年。文春文庫)の二冊が翻訳されてきた。日本での翻訳は『死のドレスを花婿に』が早かったのだが、二〇〇九年に単行本が刊行された時はさして話題にならず、知る人ぞ知るという水準に留まった。その名が一般層の読者に知れ渡るようになったのは二〇一四年九月に『その女アレックス』が刊行されて以降であり、下馬評が高かったわけではなく、決して版元が宣伝費を使いまくったわけでもないのに、口コミを中心にそのおもしろさがじわり、じわりと伝わっていき、年末までには数十万部を超すベストセラーへと成長した。年末恒例のヒットセラーランキングでは、なんと四ヶ所で一位に選ばれている。そのかたわら、前作が幻の名作状態になっているという評判が高まり、翌年四月には『死のドレスを花婿に』も本文庫から復刊されたのである。近年フランス・ミステリーがここまでの読者に支持された例はなく、いかなる理由がこの現象の背後に、と関係者の首をひねらせることになった。
いや、単純におもしろさが幸福な形で読者に伝わっただけのことと思いますがね。
とはいえ、筆者もそうやって頭をひねった一人だ。冒頭に「脳がざわざわする」と書いたのは、そうやってルメートルの魅力について考えているときに出てきた、これかもしれないな、という一言である。
ルメートルの作品を読むと、まず胸がざわざわする。
小説は波乱に満ちている。次から次に事件が起これば、読者は眠気を吹き飛ばされ、退屈するどころではなくなる。しかし、ルメートルはそういった遊園地的アトラクションを読者に与えるだけでは到底満足できない書き手だ。彼の小説は、強迫神経症的な迫力に満ちている。首筋に刃物を突きつけられたときのような恐怖感、目の前で蠢(うごめ)いている蛇の群れを見つめているが如き気分にさせられる不快感、そしてその刃物や蛇の群れが今にも自分に迫ってくるのではないかという不安感といった、生理感覚を直接刺激する負の求心力が、全編に横溢(おういつ)しているのである。消息を絶った女性の行方を刑事たちが追うパートと並行して彼女が陥っている苦痛に満ちた境遇が描かれていく『その女アレックス』、ぶつぶつと途切れてしまう記憶に悩まされながら自分を追ってくる司直の手からも逃れ続けなければならない女性を主人公とした『死のドレスを花婿に』といった既訳作品をご存じの方は、その読後感を思い浮かべていただければ、ああ、あれか、と納得していただけるはずである。
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