「日本で唯一の演芸専門誌」というキャッチフレーズを掲げる「東京かわら版」には、東京近郊で開かれる落語、講談、浪曲などの演芸会情報が掲載されている。二〇一四年十二月号の掲載数はなんと九百超。単純計算でいえば一日に三十近くの興行が開かれていたことになる。今や至るところで地域寄席と呼ばれる自主興行が催される時代になった。
ただ、そうした自主興行とは違った味わいの場所もある。一年三百六十五日、ほぼ毎日演芸の興行だけが開かれる場所が世の中には存在するのだ。そうした場所を寄席の「定席」と呼ぶ。戦前までの東京は、一つの街区だけで完結して生活できるような構造になっており、それこそ寄席も町ごとにあった。そうした地場の定席で現在も残っているのは都内に四つだけ、官製のものとして国立演芸場があるが合わせても五つ、戦前の隆盛を考えれば淋しいものだが、その代わりに無数の地域寄席が出現したわけで、決して悲観したものでもない。しかし、新しい場所には勢いはあっても歴史はない。時代の醸し出す薫りというものは、即席に吹きつけて出すわけにいかないのである。
私の思うに愛川晶は、その時代の薫りにロマンを感じるたちなのではないか。だからこそたいへんな苦労をして、余人にはできなかった芸当を成し遂げた。四軒を残して絶滅したはずの定席を、新たに二つ誕生させてしまったのだ。
一つは『道具屋殺人事件』(二〇〇七年。現・創元推理文庫)に始まる〈神田紅梅亭寄席物帳〉シリーズの舞台となる神田紅梅亭である。落語家・寿笑亭福の助の妻・亮子を狂言廻しとし、師匠である山桜亭馬春が探偵役を務める連作ミステリーだ。もう一つは、花街の風情を今でも色濃く残す街・神楽坂に存在する。坂を上りきった場所にある毘沙門天善國寺の手前に、目当ての神楽坂倶楽部がある。そこで即席の席亭(支配人)代理として働くのが本篇の主人公・武上希美子なのである。
『高座の上の密室』は、二〇一五年一月に愛川晶が上梓した『神楽坂謎ばなし』(文春文庫)の続篇である。先行する〈神田紅梅亭寄席物帳〉シリーズは、ずぶの素人が落語家の妻となり、その視点から未知の芸人の世界を覗きこむという趣向があった。同じように本シリーズでは、演芸とはまったく無縁の主人公がいきなり寄席の経営者見習いとなり、試行錯誤を重ねながら成長していく姿が描かれる。その過程ではさまざまな揉め事や謎の事件が起きる。そのたびに困惑させられる彼女に力添えするのが、自称・下足番の従業員、稲木義蔵である。彼は元・刑事にして希美子の祖父の同僚という、謎めいた経歴の持ち主だ。
希美子が席亭代理になった経緯は、前作『神楽坂謎ばなし』の「セキトリとセキテイ」に詳しい。本来は中堅出版社の編集部員だった彼女は、落語家・寿々目家竹馬の著書を出す際に失敗し、進退窮まることになった。しかし、希美子の生き別れになっていた父・岸本寅市が実は神楽坂倶楽部の席亭であったという事実が彼女を救う。寅市は急病のために入院し、寄席が存続の危機を迎えていた。寿々目家竹馬から席亭代理就任を要請された希美子は、断りきれずに二ヶ月の期限付きでその座に就くことになるのである。続く「名残の高座」ではいよいよ希美子が神楽坂倶楽部に赴き、最初の事件に遭遇した。
-
寄席のウラオモテ
-
飴村行に銀紙噛ませろ
-
少し変わった森博嗣あります
2006.09.20書評 -
「軍鶏侍」から「ご隠居さん」へ