『むかし・あけぼの』は清少納言を主人公にして、田辺聖子先生が愛情たっぷりに描いた小説である。頭の回転が速くて、当意即妙の受け答えが得意。自分の才能をよく知っていて、人に誉められるのが大好きだし、それをまた臆面もなく出すことができる女性だ。とにかく前向きで、自信たっぷり。子供のころから父親に可愛い、可愛いと溺愛されて育ったおかげで、容貌はさほどではないけど、劣等感を抱くこともない。
彼女が仕える中宮定子は聡明で美しく、ユーモアのセンスもある理想の姫君だ。最高権力者の藤原道隆を父に持ち、夫の一条帝からただひとりの女性として愛されている。しかし、父親の死後、権力の座が藤原道長に移ると、一家はたちまち没落し、後ろ盾を失った定子は悲運のうちに二十四歳の若さで亡くなってしまう。華やかな雰囲気の上巻に比べて、定子がおちぶれていく下巻は別の物語かと思うほど色調が違う。あのキラキラした『枕草子』がそんな逆境のなかで書かれていたことに驚かされる。だからこそ、清少納言は決心するのだ。自分は楽しいことだけを書いていこう、辛いこと、嫌なことは胸のなかにしまっておけばいいのだから、と。
じつをいうと中学校で『枕草子』を習ったとき、「香炉峰の雪」のエピソードが鼻について、清少納言に好感が持てなかった。中学生らしい潔癖さもあり、自慢たらしい嫌味な女性だと感じたのである。ところが、大人になって『むかし・あけぼの』を読んだとき、初めてストンと胸に落ちた。繰り返し語られる「楽しいことだけを書く」という彼女の思いはこの作品を貫くテーマといえるだろう。すると清少納言が嫌な女と思えなくなり、ひとりのキャラクターとして私のなかに入ってきた。それは新鮮な感覚だった。
田辺先生が凄いのは、三百段前後の章段で構成された『枕草子』から、どんぴしゃのエピソードを選び出し、ここしかないという絶妙の場所に落とし込んで、ひとつの物語を織り上げていることだ。それが清少納言の人となりや、心の動きを理解するのにすごく役立っている。『むかし・あけぼの』は連載小説として書かれたそうだが、最初からきちっと構成を決めていたのか、それともある程度だけ決めて、あとは成り行きで書き進められたのか。どちらにしても、私にはほとんどパズル。しかも、田辺先生はこの小説だけに専念していたわけではなく、ほかにも同時進行で執筆を進めていたのである。
漫画家の目線でもう少しこまかく見ると、登場人物の対比が鮮やかだなぁと思う。夫の則光は打っても全然響かなくて、いつも清少納言をイライラさせているけど、裏表がない、私の好きなキャラクターである。自然体で情にもろく、最後は一緒に赴任先に来ないかと清少納言を気づかう優しさもある。しかし、則光だけを描いてもさほどおもしろくはない。清少納言がダーッと突っ走って、崖から落ちそうになるのを、則光が後ろからうまくセーブする。ふたりを対比させて描くから、則光の穏やかさがくっきりとする。お互いを引き立てあっている。それにしても、不思議な夫婦だ。別れたと思ったら、焼けぼっくいに火がついて、肌のなれあった大人の関係を続けていく。清少納言は自分にないものを持っている則光にかすかな安らぎを得ていたのだろう。
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