日が明るければ明るいほど、影は暗くなる。それと同じように定子の暮らしが華やかであればあるほど、そのあとに訪れる不幸は痛ましい。田辺先生は物語の随所にその予兆を散りばめているので、読み進むうちに物悲しさに胸が詰ってしまう。一家が没落し、定子に早すぎる死が訪れるラストに向かって、この長い物語は一気に収束していく。『むかし・あけぼの』でもっとも印象的なところは何かと問われたら、読み終えたときに胸に残る、滅びの美しさと運命の儚さと答えるだろう。それがあるから、「好きなこと、楽しいことだけを書いていこう」という清少納言の決意が生きるのだし、見事にやり遂げてみせた彼女に読者はカタルシスを感じて納得するのである。
それにしても定子の兄弟、とくに兄の伊周の不甲斐なさときたら……。実務経験もないのに、親の七光りで出世したのがそもそもの間違いの始まり。もう少し本人の頭が良かったら、他人の怨みを買ったり、陥れられることもなく暮らせたろうに。もし伊周が現代に生きていたら、間違いなくツイッターを炎上させていたと思う。
田辺先生の作品は『新源氏物語』や、登場人物が大阪弁で会話する源氏のパロディ『私本・源氏物語』のほか、『文車(ふぐるま)日記』といった古典案内の随筆もたくさん読んだ。平安ものの小説を書ける作家はあまり多くないと思う。現代文に古語を織り交ぜながら、平安の雰囲気を表現するのがむずかしく、できの悪い小説は文体が違和感だらけで、いちいちつっかえてしまう。とくに敬語のなかで、今は使われなくなった語彙の多い謙譲語は厄介だ。でも、田辺先生は平安の言葉がバイリンガルのように身についているから、文体は品良くこなれて、古語と現代語を行ったり来たり、その境目さえ気にならない。
宮中や高級貴族だけではなく、庶民の暮らしと当時の風俗を目で見るようにありありと描けるのも田辺先生だからだと思う。旦那の友だちが家に遊びに来て夜中まで騒いでいると、使用人は門が閉められないと聞えよがしに文句をいう。築地が破れて泥棒が入り込んだり、花が盗まれたり。こういう描写がピリッとしたスパイスになり、登場人物の心の動きが際立ってくる。そして、過不足のない筆運び。もし、田辺先生が平安時代に生まれていたらどうなっていただろうか。清少納言ではなく、紫式部になっていたかしら? いや、先生は重厚な小説も軽妙なエッセイも自由自在に書けるから、きっとふたりを合わせたような女性として、宮中の人気を独り占めしていたに違いない。
置き場に困って本をまとめて処分する機会は何度もあったのに、『むかし・あけぼの』は三十年間、手放すことができなかった。これからも、ページを開くたびに私をはるかな平安の世界に連れて行ってくれるだろう。そこにある、たしかな道しるべとして、私に古典の豊かさを伝えてくれるはずだ。
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