書評

太平洋戦争の敗戦は何を語っているか

文: 保阪 正康 (ノンフィクション作家)

『あの戦争になぜ負けたのか』 (半藤一利・保阪正康・中西輝政・戸高一成・福田和也・加藤陽子 著)

 昨年(平成十七年)は、「戦後六十年」ということで、メディアを中心にあの戦争をふり返ることが多かった。とはいえ、戦争それ自体を記憶している世代は極端なまでに少なくなっている。ふり返るといっても歴史のひとこまという見方になるのは仕方がなかった。

 私見をいえば、戦後六十年は好むと好まざるとにかかわらず「同時代史から歴史への移行」を意味しているように思う。同時代史というのは、記憶が主、記録が従という構図があるし、あるいは政治や思想が軸になり、歴史的見方はそれに従うという枠組みであった。この構図や枠組みは、太平洋戦争そのものを好悪の感情で語ったり、ある史観のプロパガンダのために史実がツールとして利用されるという意味をもっている。当然ながらそこには見えないものがある。

 私があえて「歴史に移行していく」というのは、この見えないもの(不可視の領域ということになろうか)をこれからは意識していかなければならないということだ。わかりやすくいうなら、太平洋戦争は確かに日中戦争の延長として対米英戦争に入っていくことでもあったが、同時にそこには昭和十年代の軍事主導体制が近代日本の建軍以来の矛盾と戦うという側面があったし、この体制を支えた軍事指導者たちがはたして日本陸軍の正統派であったかの問い直しも必要である。

 こうした領域にまであの戦争の分析を進めていくということは、同時代史のなかでは容易にできることではなかった。そのような取り組みを試みても体験者の記憶や政治的、思想的解釈の前に圧倒されて正面からは取り組めなかったともいえるだろう。

 戦後六十年は記憶にもとづく記録が実質的に役割を終え、記録のなかから教訓をひきだし、それを歴史上に定着させる出発点ではないだろうか。記憶の役割は終えたともいえるし、記憶と一体化した記録(たとえば聞き書きのようなものだが)も早晩役割を終えるのではないか。これからは記録の質が問われていくし、記録のなかにひそんでいる歴史的意味がもっとも重きをなしていくと私には思える。

 戦後六十年の夏、六人の昭和史に関心をもつ論者がニューオータニの一室に集まって、「あの戦争に敗れたのはどのような理由によるものか」というテーマにもとづいて討論を行った。アイウエオ順に列記すれば、加藤陽子、戸高一成、中西輝政、半藤一利、福田和也、そして私となるのだが、年齢も異なるしその経歴もさまざまである。共通なのは、あの戦争に対する関心の深さといったところだろう。

【次ページ】

あの戦争になぜ負けたのか
半藤一利、保阪正康、中西輝政、戸高一成、福田和也、加藤陽子・著

定価:本体800円+税 発売日:2006年05月19日

詳しい内容はこちら



こちらもおすすめ
インタビューほか〈ロング・インタビュー〉硫黄島の戦いに日本人の本質が見える(2005.11.20)
書評大義とは何か――遺書でたどる昭和史決定版(2009.09.20)
インタビューほか歴史探偵が語りおろした「戦争史」決定版(2011.01.20)
書評「半藤さんは山本五十六を描ける最後の書き手です」(2011.11.14)
書評『特攻の真意』解説(2014.08.04)
インタビューほか長期的な目線で 「穏やかな国・日本」を守るために(2014.05.20)