毎日のように、新しい犯罪が報道され、メディアによってしゃぶりつくされては、また翌日、新しい犯罪が起こって、前日のものに取って代わる。わたしたちは毎日毎日、新しい犯罪を、まるで依存症になったかのような貪欲さで、消費している。
こんな社会で生きていても、ときおりふだん以上の関心で目を向けてしまう犯罪も起こる。すれっからしになった感受性にも、ぐさりと突き刺さってくる報道がある。痛ましい、と感じて、しばらくのあいだ胸騒ぎが収まらないような事件がある。
わたしの場合、それは弱い者が一方的に殺されたという事件だ。路上生活者が被害者となった殺人事件とか、いじめ対象の子供へのリンチ殺人、それに、幼い子供が被害者である事件である。
ときどき自分のウェブサイトに、そのような事件についての感想を書くのだが、あるときいつも厳しいことを言ってくる友人から、お前はひとの生命の価値に序列をつけているのではないかと指摘されたことがある。わたしが「痛ましい」「これは許せない」と感じる殺人事件には、偏りがあるというのだ。
そのとおりだ。はっきり言ってしまうが、わたしはひとの生命の価値に序列をつけて犯罪報道に接している。詐欺ビジネスの片棒担いでいる男が、詐欺被害者の抱き合い心中に巻き込まれて死んだところで、同情は感じない。暴力団抗争で暴力団員が殺されたところで、何の感慨もない。
ひとの生命は等しく重い? ひと前では、わたしもそう発言するだろう。一歳の乳児の生命も暴力団員の生命も、等価であると。
でも本音では、そうは考えていない。たとえば一歳の乳児の生命を奪った者に対する怒りは、暴力団抗争の殺人者に対する感情とはまったく別個のものだ。後者について言えば、どうでもよい。司法が淡々と法に従って裁けばよい。
しかし、一歳の乳児が殺されたという事件に接した場合、わたしは穏やかではいられない。被害者の両親の胸のうちを思って、いたたまれない気持ちになる。殺害犯に対して、この者には因果応報の原則がしっかりと適用されて欲しいと激しく願う。
さあて、問題のひとつは、その因果応報の中身だ。犯罪に対して法が定めた刑罰の質と量が、ほんとうに合理性を持っているか、という疑問だ。
もうひとつの問題は、加害者が年少の場合の処分であり量刑だ。いま少年法が定める年齢の日本人をほんとに「子供」として保護してやらなくちゃならないか、という疑問が、いまや少年犯罪が起こるたびに社会に沸き起こる。国民的常識に合わせて、二年前、少年法も改正され、少し実態に合ったものになったけれども。
それでも、少年による、とくに社会的あるいは生物学的にきわめて弱い者の殺害に対する、こんにちの司法が下す刑罰、これはほんとうに倫理的に、あるいは法哲学的に妥当なものなのだろうか。
『ユニット』を書き出すに至った根本的な動機は、この疑問なのだ。
この種の「犯罪」の重さと、じっさいに下される「刑罰」との、被害者感情を納得させてくれぬ乖離(かいり)については、早くから呉智英氏が、「身内には仇討ち権を認めよ」と、冗談を装ったかたちで主張されている。
これについてのわたしの、いま現在の思いはこういうものである。
たとえばここに、かつて妻と幼い子供とを少年に殺された男がいるとしよう。殺害犯は少年であるから、いわゆる極刑という判決はありえない。刑事裁判手続きが取られたとして、最高で無期懲役、ということは、改正以前の少年法では、最低七年でこの少年は刑務所を出てくるのだ。
男がこれを不満と感じるならば、そしてみずからもまた殺害犯として長い懲役に服する覚悟があるなら、彼は「仇討ち」に出てもいいではないか。
ただし、と、あわててつけ加えなければならない。その男が仇討ちに出ることについては、無責任な小説家として納得できるが、はたして彼はその仇討ち(復讐)を実行したとして、ほんとうに救われるだろうか。自分は無念を晴らしたと、彼は心の底からそれを喜ぶことができるだろうか。
『ユニット』は、この仮説と疑問とを検証するための、いわば思考実験とも言える小説である。コンテンポラリーなテーマを扱ったため、家庭内暴力、悪徳警察官、熟年離婚といった、わたしには珍しく風俗的なキーワードが散りばめられた作品となった。
さて、わたしの結論はどうか。
『ユニット』というタイトルにもこめたが、このタイトルと小説のラストが、いま小説家として出し得る唯一の答だ。
ユニット
発売日:2014年01月24日