書評

高放射能汚染地域〈ゾーン〉をめぐる文学実践。計り知れないほど深くて広い田口ランディの紡ぐ世界

文: 結城 正美 (金沢大学教授・環境文学)

『ゾーンにて』 (田口ランディ 著)

 最後に、『ゾーンにて』をより大きな文学的系譜に位置づける試みをもって、この解説を終えることとしたい。最初のほうで石牟礼道子氏に言及したが、福島原発をめぐる問題はよく水俣病問題と並べて論じられる。政治的・社会的に問題の構造が似ているのだ。文学実践をみても、福島の問題に向き合う作品には〈苦海浄土〉三部作の影響が感じられるものがあり、『ゾーンにて』もその一つである。とはいえ、この作品には石牟礼氏や『苦海浄土』への言及はないし、水俣という言葉も出てこない。水俣病問題をめぐる文学との関係は容易には感知されないだろう。先述したゾーンで喚起される「懐かしさ」に『苦海浄土』の記述を連想することは私の個人的な印象にすぎないかもしれないのでカウントしないにしても、微かに、けれども確実に、水俣文学とのつながりを示すものがある。それは、「モルモット」に登場する猫の「ルル」だ。

「ルル」という名の猫は、石牟礼作品ではなく、加藤幸子の小説「海辺暮らし」に登場する。そして、この「海辺暮らし」という作品には、『苦海浄土』同様、海辺で暮らす老人が昔からそうしているように自分の食べる分だけ海から――工場排水で汚染された海から――とって日々の生活を営む様子が、高度経済成長のただ中にある社会を背景に描かれている。作品の端々に水俣病を連想させる記述があり、なかでも決め手となっているのが老女の飼猫「ルル」の奇妙なダンスだ。これだけの説明ではわかりにくいかもしれないが、「海辺暮らし」において「ルル」という名の猫は水俣病を指示する文学的記号となった。それゆえ、田口氏の意図がはたらいているかどうかは関係なく、ゾーンに暮らす老女の飼猫が「ルル」という名を与えられたとき、福島原発事故をめぐる彼女の作品に水俣病問題とつながる回路が一気に出現するのである。

 これは一介の文学研究者の深読みにすぎないのだろうか。そうかもしれない。しかし、私には、『苦海浄土』に代表されるような水俣病問題に向けられた文学的まなざしが、福島の原発事故をめぐる田口氏の文学実践に引き継がれているように思えてならない。田口氏特有の軽快で平易な語り口からは想像できないほど、『ゾーンにて』の行間の深さと広がりは計り知れないように思われる。


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ゾーンにて田口ランディ

定価:本体640円+税発売日:2016年01月04日