鬼海弘雄はお気に入りらしく『アナトリア』という別の写真集も待っていましたとばかりに取り上げて熱心に魅力を語る。写真を文章で語るのはなかなかむずかしいのだが、読んでいるうちについつい引き込まれる。
ここでも「老人たちが集って暇つぶしをしている情景がチャーミング」とあったりして、実はたった今、この解説を書いている途中でがまんできなくてこの本を注文してしまった。アナトリアはトルコの東部でぼくはよく知っている。村の結婚式にまぎれこんだこともある。この写真でまたあの人たちの顔が見たいと思った。つまりは山﨑さんの文章によっていくばくかの出費の場へ誘導された。
こういうことをしていると、先日出た鬼海さんの新刊『世間のひと』はどうですか? と山﨑さんに問いたくなる。浅草で定点観測して(言い換えれば待ち伏せ猟で)撮ったポートレート集で、写っている連中の顔がすごく濃いんですよ。そう言えば鬼海さんはぼくと同い年でしてね、などなど一方的な会話が心の中で始まるのは、つまり読む者が何か言いたくなる仕掛けがこの書評=エッセーにあるのだろう。
別に老人に関わる本ばかり取り上げてあるわけではないのだが、関心がそちらに向く傾向はあるかもしれない。佐野洋子の『死ぬ気まんまん』とか、鶴見俊輔の『不逞老人』とか、やっぱり理想の老人像が気になるらしい。
その一方で、少年というのも大事なのだ。
書評という仕事は本を選ぶところから始まるから、山﨑さんがどんな本を取り上げるかで好みないし傾向がわかる。
仕事がら「演技」や「俳優、役者」に関する本が多い。それに「食う」や「食べ」もずいぶん目につく。だが「老人」も多いし、どうも「少年」にも頻繁に出会ったような気がする。「女」は少ない。ぜんぜんいなかったかもしれない。
少年と老人が登場する本として長薗安浩の『あたらしい図鑑』がある。田村隆一がモデルらしい老詩人と十三歳の少年のひと夏の出会い、の話らしい。ぼくは未読で、例によってけっこう惹かれた。この本の先で長薗がずっと前に田村に聞き書きして作った『詩人からの伝言』が挙げられるのは当然として、その次がヘミングウェイの『老人と海』というのは、文章の上では食べ物でつなげてあるけれど、底流に少年と老人への連想があったのは明らかだ。あれは最初のところに少年が登場して老いた漁夫になにかと手を貸す。その後、海に出てからはずっと老人一人。
あれは一人芝居にならないかな。最初だけは少年との会話で、あとはずっと独白。というのも山﨑努には『ダミアン神父』という見事な一人芝居があって、ぼくは年に一度は録画で見ることにしている。ハワイのモロカイ島にあったハンセン病患者の施設で奉仕活動をした神父の生涯を回想して語る。あれと同じように老漁夫が舟の上でぽつりぽつりと話したらどうだろう? 主演は(って、ほとんど一人だけだが)もちろん山﨑努。
ああ、一九九八年の『リア王』を最後に山﨑さんはもう舞台には立たないんだった。そしてあの芝居のことならば『俳優のノート』という名著があって、そちらを読むとこの『柔らかな犀の角』の「身体の仕組み、身体の力、身体を貸す」のところにある生理的な「大きな異変」がどういう事情で起こったかがよくわかる。
この本を肴にしていると話はいくらでも広がる。それと同時にどんどん本を買う。気をつけなくては。
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