日本のノンフィクションの金字塔とも言える沢木耕太郎の『テロルの決算』。 一九七八年に発表されたその作品は三十年たった今も、圧倒的な完成度と凄味をもって読者に迫ってくる。 同じ一九六〇年を起点とする『危機の宰相』の文庫化と同時に、今回文庫新装版として生まれ変わる。 その新装版刊行にあたって著者自身が書き下ろした三十年後の終止符――。
この『テロルの決算』の取材では、実にさまざまなタイプの人と出会うことになった。たとえば、政治的には右から左まで、年齢的には十代から九十代まで、居住する地域においては北海道から九州まで、というように。
中でも、私に強い印象を与えてくれたひとりに中村忠相(ただすけ)がいる。中村忠相は、二矢(おとや)の父である山口晋平(しんぺい)の旧制高校時代の友人で、「東京園」という温泉センターを東横線の綱島駅の近くで経営している人だった。山口二矢が日比谷公会堂で浅沼稲次郎刺殺事件を引き起こすと、山口一家はマスコミの執拗な「攻撃」に悩まされることになる。そのとき、ひそかに救いの手を差し伸べたのが中村忠相だった。自分はテロリズムを容認しない。しかし、友人とその家族が困っている以上、助けないわけにはいかない、と。中村忠相は、「役に立つことがあったらいってくれ」と電話を掛け、その申し出を受けた山口夫妻は緊急避難というかたちで「東京園」の一室に「隠れ住む」ことになった。
私は、取材の過程で、山口晋平に中村忠相を紹介してもらい、その中村忠相の口利きで医師の梅ヶ枝満明と会うことができていた。梅ヶ枝満明と会えなければ、『テロルの決算』の最終章はまったく異なるものになっていただろう。しかし、私にとって中村忠相がとりわけ印象的だったのは、そうした取材上の便宜を図ってくれたからというだけが理由ではなかった。中村忠相という存在そのものが魅力的だったのだ。
中村忠相は、五十代のときに、旅先の旅館の階段から落下して脊髄(せきずい)に損傷を受け、以来、何十年もベッドの上で寝たきりの状態になっていた。私が初めて訪ねたときも、東京広尾の日赤医療センターの個室で横たわったままだった。いや、二矢の事件を受けて、「役に立つことがあったらいってくれ」という電話を山口晋平のもとに掛けたのも、すでに生涯治癒することはないだろうという絶望的な宣告を受けて寝たきりの状態になったあとのことだった。
しかし、その中村忠相は、ベッドの上で無数の本を読み、テレビの番組を見、訪ねてくる人の話を聞き、あるいは議論をし、あふれるばかりの好奇心を「全開」にして生きていた。その生き方を反映して、見晴らしのいい高層階にある中村忠相の病室は、いつも看護師や見舞い客の笑い声であふれていた。
私は『テロルの決算』の取材が終わってからも、ときおりその病室を見舞うようになった。
そこでは、やがて知り合うことになる中村家の子息たちの話や山口家の人々の「現況」というような話から始まって、国際情勢や教育問題、さらには中村忠相がベッドの上でずっと考えつづけているという「新しい国歌」についてといったようなものに至るまで、ありとあらゆることが語られたものだった。中村忠相は話を聞くこと、そして話をすることが好きだった。
あるときなど、今度来るときに何か持ってきてほしいものはありませんかと訊(たず)ねると、こう答えたものだった。
「話がおもしろい女の子をひとり調達してきてほしい」
私は、「女の子」という年齢ではないにしても、間違いなく「話がおもしろい」女優の友人に、三十分ほど相手をしてくれるよう頼んだ。二人で病室を訪ねると、中村忠相はその女優とさまざまなことについて一時間以上も話し込み、最後には、今度は車椅子に乗ってこの近くのおいしいレストランで食事をしようという約束までするほどだった。
もちろん、それが「話の勢い」というものだということは中村忠相にもよくわかっていただろう。しかし、少なくとも、その一時間余りを楽しく過ごしてくれたことは間違いないようだった。私たちが帰ろうとすると、いつになく改まった口調で言ったものだった。
「ありがとう。いい記念になったよ」
テロルの決算
発売日:2014年01月24日
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