書評

〈『テロルの決算』三十年後の終止符〉
完璧な瞬間

文: 沢木 耕太郎 (作家)

『テロルの決算』 (沢木耕太郎 著)

日本のノンフィクションの金字塔とも言える沢木耕太郎の『テロルの決算』。 一九七八年に発表されたその作品は三十年たった今も、圧倒的な完成度と凄味をもって読者に迫ってくる。 同じ一九六〇年を起点とする『危機の宰相』の文庫化と同時に、今回文庫新装版として生まれ変わる。 その新装版刊行にあたって著者自身が書き下ろした三十年後の終止符――。

 ところが、中村忠相の「楽しいこともあったかもしれないな」という言葉が、私に、大場政夫を「手塩にかけて」育てたマネージャーである長野ハルの言葉を思い出させてくれたのだ。かつて彼女は、こんな風に語っていたことがあった。

「大場には引退してからがもうひとつの人生なのよと言いつづけていた。それから楽しいときが待っているのよと……」

 だが、それを聞いたとき、私は「楽しいとき」を迎えている三十代、四十代の大場政夫の姿を思い浮かべることができずに戸惑ったものだった。思えば、大場政夫もまた、山口二矢と同じように、「もし生きていたら」という仮定を鋭く撥ね返してしまう夭折者のひとりだったのだ。

 なぜ、彼らは「もし生きていたら」という仮定を撥ね返してしまうのだろう?

 もしかしたら、それはこういうことなのかもしれない。

 山口二矢は、日比谷公会堂の壇上に駆け上がり、持っていた刀で浅沼稲次郎を刺し殺した。それは、彼が望んだことを完璧に具現化した瞬間だった。山口二矢は、十七歳のそのとき、完璧な瞬間を味わい、完璧な時間を生きた。

 そして、大場政夫もまた、日大講堂に設けられたリングの上で完璧な瞬間を味わい、完璧な時間を生きた。第一ラウンド、大場政夫はチャチャイ・チオノイの強烈なロングフックによってダウンさせられる。しかし、鼻血を流し、右足が痙攣(けいれん)するというダメージを受けながら立ち上がると、逆に第十二ラウンドにおいて三度ダウンを奪って仕留めるという、見ている者が震えるような試合をやってのけたのだ。

 彼らが、私たちに、「もし生きていたら」という仮定を許さないのは、彼らが生きた「完璧な瞬間」が、人生の読点ではなく、句点に匹敵するものだったからなのではないだろうか。「、」ではなく、「。」だった。

 若くして「完璧な時間」を味わった者が、その直後に死んでいくとき、つまり、物語にピリオドが打たれるように死が用意されるとき、私たちには、それが宿命以外のなにものでもなかったかのように思えてきてしまう。そのように生き、そのように死ぬしかなかったのではないか、つまり、その先の生は初めから存在していなかったのではないかというように……。

 そのとき、私はひとつ理解することがあった。

 私は、少年時代から夭折した者に惹(ひ)かれつづけていた。しかし、私が何人かの夭折者に心を動かされていたのは、必ずしも彼らが「若くして死んだ」からではなく、彼らが「完璧な瞬間」を味わったことがあるからだったのではないか。私は幼い頃から「完璧な瞬間」という幻を追いかけていたのであり、その象徴が「夭折」ということだったのではないか。なぜなら、「完璧な瞬間」は、間近の死によってさらに完璧なものになるからだ。私にとって重要だったのは、「若くして死ぬ」ということではなく、「完璧な瞬間」を味わうということだった……。

 私は、そうした錯綜した思いを中村忠相に伝えようとして、口をつぐんだ。彼の何十年にもわたるベッドの上の困難な生は、「完璧な瞬間」を味わって死ぬという、山口二矢や大場政夫の直線的な生とは対極にあるものだったということに気がついたからだ。

 たぶん、若くして死ぬことのなかった私たちの生は、山口二矢や大場政夫の直線的で短い生と、中村忠相の長く困難な生との間に漂っているのだろう。

 しかし、私は大晦日の夕陽がゆっくり沈んでいくのを眺めながらこうも思っていた。

 私の内部には、依然として「完璧な瞬間」の幻を追い求める衝動が蠢(うごめ)いているような気がする。私にとって、それが、いったいどのような「場」に存在するのか、まったくわからないにもかかわらず。

テロルの決算
沢木耕太郎・著

定価:本体670円+税 発売日:2008年11月07日

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