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〈特集〉桐野夏生の衝撃<br />桐野夏生の「小説=世界」のマニフェスト

〈特集〉桐野夏生の衝撃
桐野夏生の「小説=世界」のマニフェスト

文:佐々木 敦 (批評家)

『柔らかな頬』 (桐野夏生 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

「怪物」と化した「物語」

 筆者は以前、別の桐野作品について、以下のように書いたことがある。

『光源』の「世界」は、アンチ・リアル=フィクショナルであることの徹底性において、すこぶるアクチュアルなのだ。桐野夏生は、退屈な小説家がしようとするように(そして、それさえも往々にして失敗しているように)、何らかの方途で「現実」を映し出そうとするのではなく、凶暴な「虚構」の力によって「現実」を突き通しているのだ。(『光源』文春文庫版解説)

『柔らかな頬』では、桐野夏生の「世界」が「現実=リアル」から離脱し、軋みとうなりを上げながら、真にアクチュアルな「虚構=アンチ・リアル」へと突き抜けていく過程が、徐々に熱を帯びてゆく圧倒的な文体で、鮮烈にドキュメントされている。

 アクチュアルな「虚構」とは、「怪物」と化した「物語」のことでもある。しかしそれは、「現実」とは完全に絶縁した、まったく別の次元にある「世界」なのではなく、実は「現実」にぴったりと貼り付いて、まるで多重露光のように織り重なって存在しているものなのだ。つまりそれは、「現実」の隠された「怪物」性の露呈なのである。

 そうでなければ、それは単なる人畜無害な、幾らでも消費できるような「物語」でしかない。カスミの哀しみが、内海の痛みが、われわれの胸を打つのは、二人の棲む「世界」の「怪物」ぶりが、われわれの「現実」の「怪物」としての姿を、その悲哀と酷薄さを照らし出してみせるからなのだ。

 ところで、やはり『柔らかな頬』以降の桐野作品に顕著な特徴として、登場人物が心の中で紡ぎ出すさまざまな仮想(それは「夢」や「妄想」の形を取ることも多いが、それだけではなく、いわば「脳内現実」とでも呼べるようなものである)が、いつしか「物語」の「リアル」を侵食し、やがて「現実」と「虚構」の境界自体をなし崩しにしてゆくということが挙げられる。

 近作の『グロテスク』や『残虐記』などでは、小説内の「現実」と「仮想」とが、もはや完全に同等の扱いをされている。「こうであったのかもしれない」「こうなのかもしれない」「こうなっていくのかもしれない」といった、「物語」の「過去―現在―未来」をめぐる複数の、時には互いに矛盾してさえいる「仮想」が、まるで植物のようにあちこちで芽吹き、勝手に成長を始め、分裂し増殖し拡散し、「物語=世界」に散種されて、繁茂していく。

 言うまでもなく、人間の持つ「仮想」の能力、すなわち「想像力」こそが「物語」の源泉であるが、しかしそれは首輪を付けてしっかりと飼い馴らしておかないと、すぐさま暴走を開始し、遂には「世界」の安定を脅かす。だが桐野夏生は、敢(あえ)て「想像力」の調教を放棄してみせることで、「物語」の暴走と繁茂を一挙に開放し、果てしなく加速させる。

 ガンで昏睡状態に陥った内海は、無意識の中で事件の真相を幻視する。だがそれはいわゆる「謎の解決」とはまるで違う。それもまたひとつの「物語」なのであり、むしろそうした幾つもの「物語」(そこには当然、書かれていない「物語」も含まれる)が渦巻きながら、その混沌そのものによって、『柔らかな頬』という「世界」の「真実」が、鮮やかに抉(えぐ)り出されてくることになるのである。

 残念なことに、われわれが生きる「現実」はひとつしかない。だからこそひとは「想像力」を使って「物語」を創り出す。しかし「想像力」は時として思いがけぬ「怪物」たちを引きずり出し、「物語」の「怪物」ぶりを露呈させ、「怪物」としての「現実」の生々しい姿を突きつけてくる。

 だが、それが「想像力」を持った人間という生き物の宿命であり、罪でもあり、おそらくは救いでもあるのだと、桐野夏生は言いたいのではないか。

 カスミは絶望の果てに「自分は生き抜いていく」と決意する。それは「怪物」との対決への宣言でもある。

『柔らかな頬』は、「怪物」の「物語」であり、「物語」の「怪物」でもある、桐野夏生の特異な「小説=世界」のマニフェストともいうべき、エポック・メイキングな作品である。

柔らかな頬 上
桐野夏生・著

定価:本体600円+税 発売日:2004年12月07日

詳しい内容はこちら

柔らかな頬 下
桐野夏生・著

定価:本体570円+税 発売日:2004年12月07日

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