〈特集〉桐野夏生の衝撃
・〈インタビュー〉強い虚構性は現実と拮抗しうる 桐野夏生
・桐野夏生の「小説=世界」のマニフェスト 佐々木敦
・私の好きな男 桐野夏生
・キューバ旅行同行記 大沼貴之
・桐野夏生 著作年譜
――十二月(二〇〇四年)刊で、話題の直木賞受賞作『柔らかな頬』がついに文庫化されました。ファンにとって待ちに待った文庫化となるわけですが、あの作品は、当初、ミロ・シリーズとして書かれたというのは本当ですか。
ええ。第一作目が『顔に降りかかる雨』、次に『天使に見捨てられた夜』があって、三作目が『柔らかな頬』だったんです。一度書き上げたのですが、なかなか納得がいかず、担当編集者と「じゃあ、別のことをしましょう」ということになったので、「主婦が歌舞伎町のマフィアと戦う話を書きたい」と、『OUT』が先に出ることになったんです。そしてその後、『柔らかな頬』に戻って完成しました。
――ミロ・シリーズということは、ミロが事件を調査していく過程で物語が動くという、いわばミステリの常道ともいえる書き方なわけですが、書き直しでは全く違う書き方をされた。思いきった決断ですね。
結局、ミロが邪魔になったんです。私が書きたかったのは、母親にとって、突然、日常生活の中から子供がいなくなるということは一体どういうことなのか、ということ。ミロがいると、彼女がビデオカメラのように、事物を集めてくるという形の一人称小説ですから、母親の心理が書き込めない苛立ちがあった。じゃあ、いっそミロを外して母親を主人公にしてみようと思ったら、わりとすんなり行きました。
――最初からミステリの書き方はやめようと思ったのですか。
そうです。ただ、何があったのか、ということを事件に関係した人たちがそれぞれ考えているわけですから、そこを書き込んでいくと、謎解きみたいな意味合いはどうしても含まれていきます。その中で、真実はこの一本だ、というふうに書きたくなかったということです。いろいろな人間の妄想の中でのさまざまな真実を書こうというのは、最初からコンセプトにありました。
――たくさんの登場人物を書き込むのは、大変な作業ですね。
不思議なもので、人物は、どれもとんがっていないとお互いに拮抗し合わない。弱い人間が一人いるとすべて崩れてしまう。主人公を魅力的にするためには、その相手をもっと魅力的にしなくてはいけない。すると結局、徹底的に書き込むことになるんですよね(笑)。
――長篇はどういう手順で書き上げていくのですか。
作品によって違いますが、『OUT』以前は、章立てをして、ここには何を書くという大ざっぱな見取図を作っていました。でも、『OUT』のときに一人称をやめて、三人称で物語を回していく方法をとったら、いくらでも回っていくようになり、構成という不自由はやめようと思ったんです。
『柔らかな頬』の場合は、第一稿が七百五十枚で完成していたので、ゼロからの小説とは異なりますが、まず、悩んだのは、娘を失ったカスミの話を、失った時点から始めるのか、何年後から始めるのか。それから、カスミの一人称にするか、三人称にするか、という悩み。いろいろ書いてみて、二百枚ぐらい捨てました。第一稿があると、逆に難しいところがあって、何カ月も書いては捨て、を繰り返しました。
次に、苦労したのは石山洋平の変貌。石山は、最初の原稿ではホームレスになっているんです。それも、捨てがたかったのですが、あの流れからすると、石山は、落ちぶれるよりはちょっと違う世界に飛んでもらいたいと思い、あんな変貌を遂げました。石山もカスミと離れ、解放されて、自由になったのでしょう。
――第一稿から登場している人物は多いのですか。
全員、第一稿から同じ名前で登場しています。
――じゃあ、緒方という新興宗教の教祖も……。
最初からです。モデルにした千石イエスに以前から興味があって、資料を読んでいました。第一稿では、母親がいろいろな占い師のところに行くんですが、その中で、緒方だけ残して、魅力的なのか胡散(うさん)臭いのか分からない人物にしようと思いました。
――後半に出てくる元刑事、内海という人物は?
彼にもモデルがいます。第一稿の取材で出会った札幌の私立探偵で、元刑事。ともかく刑事になるためなら何でもしたという面白い人でした。その話を聞いたので、初めから、あの内海という人間が浮かび上がってきたのです。
『柔らかな頬』を読んだ人は、当時、石山派か、内海派かに分かれていたようです。私は内海に対しては非常に思い入れがあるし、石山の飛び方も、こういう人に女は惹かれるだろうなと思ってみたり、書いていて面白かったですね。
――内海の存在は作品の大きな芯になっていると思います。
そうですね。末期ガンで、日々衰えながら、一緒に子供を探す内海を書いているとき、実際に母の具合も悪くて、脱稿前に亡くなったんです。その前に父もガンで逝っていましたので、両親を見送って、死ぬことを受容する姿勢が自然と書けました。最初の原稿では、実は内海が犯人ということになっていたんです。どうしてその犯人が一緒について歩くのか、その謎はミロでは解けなかった。
――カスミと内海の関係が複雑ですね。お互いを哀れみながら、安心している。一方は死んでいくことができる。一方は、お前は生き続けられると、依存しながら、反発もしている。
さっき、ミロでは書けなかった、と言いましたが、私はどうしても子供をなくした母親と内海をぶつけてみたかったんだなあと、今回初めてわかりました。この作品のテーマは、以前にも言いましたが、子供という時間を失うこと。子供という時計を失ってしまった母親が、時を失ったままどうやって生きていくのか、というテーマだった。だから、死を目前にした内海という人間が必要だったのでしょう。たまたま、私の子供が中学生ぐらいだったので、今、この子供を失ったら、私はどうやって生きていくであろうか、という自分への問いでもあったんです。
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