先に紹介した長宗我部家末裔の現当主、友親が二〇一〇年に著した『長宗我部』によると、この波川玄蕃の起こした「土佐内乱」はれっきとした謀反であり、元親が玄蕃の一族をことごとく滅ぼすように指示したのは当然のことのように思える。
しかし本書では、その反対側、波川玄蕃から見た元親の姿を五編の短編で辿っていく。
元親との戦いに敗北し臣従した波川玄蕃が築城を画策し、元親の妹の養甫を娶るまでの物語(「花つぶて」)、かつて土佐の七雄として名を馳せていた一大勢力の一条家から元親が取り上げた山路城へ玄蕃を移封し統治を失敗させようとするが(「峰の桜」)、領民の抵抗が強いとされた山路城の一条家旧家臣と領民の信頼を勝ち取り、発展させていく玄蕃に焦る元親(「朝の霧」)、妬心に駆られ玄蕃を姦計に陥れ、後に「土佐内乱」と名付けられた玄蕃の謀反の一部始終を描き(「海部の欅」)、玄蕃亡き後の波川一族の戦い(「たもと石」)で悲劇の結末を描く。
玄蕃は孫子などの兵法に精通した軍略家であり、卓越した易断師と天候を予報する空見師を擁し、先々を予測する知恵者でもあった。伝書鳩を使った情報管理を行い、土地の者たちの気持ちを察し、寄り添うだけの器量を持った優れた武将だったようだ。
実際、玄蕃亡き後の最後の戦いでは、玄蕃軍二七〇名に対し長宗我部軍が二七〇〇名という圧倒的に兵力の差があるにも関わらず、玄蕃軍は炊事番の雑兵まで含めてほとんどが討死していると言う事実は覆せない。四国をほぼ手中にしている強大な長宗我部元親に対し、勝てる見込みのない戦いに挑んだ家臣たちの思いはどれだけ強かったことか。
長宗我部の臣下となり、元親の無理難題を解決し、常に最前線で戦った玄蕃。しかしその人望と知力、家臣団の結束を恐れた元親によって謀略に嵌り、滅亡させられたのである。
高知出身の山本一力が、世の中に知られていない波川玄蕃という武将に注目し、小説を仕立てることを決めたのにはきっかけがあったという。
編集者を同行しての高知取材中、名産品である七色和紙について知るために「いの町紙の博物館」を訪れ、玄蕃と養甫の話を聞いた。元親の妹でありながら玄蕃の恋女房、養甫は玄蕃亡き後、最後の合戦を逃れ末の息子、千味とともに落ちた先で七色和紙を作ったという。この逸話が作家の頭から離れず、やがて大きなうねりとなって本小説が熟成されていったのだろう。まさに高知という土地と、玄蕃の魂に選ばれて紡ぎあげた物語なのだ。
出身者であるところの強みはほかにもある。土地の訛りは、やはり幼少から使い慣れたものであるからだろう、臨場感いっぱいである。玄蕃お抱えの易断師、高嶋注連次と天気予報をする空見師、片岡岩次郎との会話で、元親との間を心配した「どっちがえらいかまたいか、殿は我慢しちゅうきにのう」という台詞は、意味が分からないながら、心中を察するに余りある。
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